2009年05月28日

新型インフルエンザの患者に対する魔女狩りのような騒ぎをよく考えてみる

豚インフルエンザの話題ばかりが目立つようになってきましたが、その感染者を、まるで犯罪者扱いか、あたかも魔女狩りのするような、WHO ( 世界保健機関 )の、人々をむやみに恐怖にあおるようなプロパガンタは、もういい加減にしてもらいたいものだと思っています。

まるで、なぞの宇宙人エイリアンが、なぞのウイルスをばらまき、へたをするとそれで人類が絶滅するかのような騒ぎ方ではありませんか。

医療の専門家といわれる人たちの、コミュニケーション能力の貧困さ、頼りに全然ならないひ弱さとふがいなさには、がっかりさせられます。まるで無力で無能ではないか、とすら考えたくなってきてしまいます。

WHOのトップが、地球の人口の大多数を占める、衛生状態もよくない貧困層の人口への感染拡大を強く懸念して、強調する気持ちはわからないでもありませんが、今、すぐに感染予防に役立つことやできることを明確にして、まず対処できることから確実に対処して、目先のことで予防できることから確実に予防していこう、という具体的で明確なメッセージがまったくなく、やたら、むやみに人々の恐怖や不安をあおるような声明ばかりに終始しています。

インフルエンザ・ウイルスは、今までのものも、新しいものも、どれも、熱には非常に弱いのですから、豚だろうが、鳥だろうが、かならずよく火を通してから食べる、とか、当然、あたりまえの論理的な対処の仕方が、まず指摘されてしかるべきです。

また、よく手を洗う、マメによくうがいをする、疲労をためない、よく十分な睡眠をとる、飲食に気をつけ、暴飲暴食のような、免疫力を落とすような生活習慣は送らない、健康的な生活習慣を守る、など、伝えるべきメッセージはいくらでもありますでしょうに。

WHOのだらしなさにくらべて、たまたま新宿の紀伊国屋書店で見つけた、小さな子供向けのインフルエンザ対策の本では、まさに、今述べたような、今すぐにできることからはじめて、免疫系を守り、予防効果を高めるような具体策が、かなりしっかり書いてあって、こういう医療専門家も、まれにいるのだな、と感心したものでした。

ワクチンができなければ、終わりだ、絶望だ、みな、間違いなく全員がかかってしまうにちがいない、というような、頭でっかちな妄想というか、思い込みは、いったいどこからでてくるのでしょうか?

まるで、新型インフルエンザにふれた人は、かならず感染するような伝え方、騒ぎ方をする。

実際、かかる人もいるが、全然かからない人もいるというのが本当の事実。

ましてや、ワクチンという獲得免疫だけが生態防御のはたらきじゃないですよ。

自然免疫のはたらきだって、あるし、たのもしい生態防御のはたらきは、そんなに、頭でっかちな人たちの思い込みをはるかに超えて、たくましくはたらいています。

また、狩猟民族である西洋流の思考の弱点が、未知なるものへの異常なまでの恐怖心、というものでしょうね。昔、ヨーロッパで大流行したコレラやぺストなどの疫病の悪夢が、彼ら病気の原因を外に求める傾向の強い西洋医学を勉強しすぎた人々や西洋人のDNAに根強くこびりついているかのようです。

笑いが止まらないのは、マスクの製造会社と、政府からも早急なワクチン製造をせかされて、助成金などが政府から入ってくるであろう製薬会社ばかり。

鳥インフルエンザが大流行するぞ、とさんざん脅かしておいて、どうも、大流行の火がつかないと思いきや、急に、今度は、豚インフルエンザの恐怖ときた。

エイリアンAが広まらないなら、エイリアンBだ、とばかり。

「オオカミが来た!オオカミが来た!」と騒いで、オオカミが来ず、ほんとうにオオカミが来たときに、再びそういっても、誰も信用してくれなくなった、という「オオカミ少年」の寓話を思い出します。

SARSのときだって、WHOは、まだ問題が解決したわけでもないのに、政治的に終結宣言をして、それを鵜呑みにする判断力の低い多くの人間たちが、いっせいにマスクをはずした、などという、実にいい加減な対応を思い出します。

終結宣言をしたときに、まだSARSのワクチンが完成したわけではないのですよ。

じゃあ、あれだけ、あおっておきながら、なぜ、SARS終結宣言ができるわけでしょうか?


さて、ここでよく考えてみましょう。

ウイルスの飛沫感染を防ぐといっても、もちろん、くしゃみや咳のときの、つばきや痰が直接、入ってくるのは防げても、ウイルス一個の大きさをサッカーボールにたとえれば、マスクの穴の大きさは、東京ドームくらいあるのだから、マスクでウイルス感染を防げると考えること自体が、あまりにも科学的なかしこい判断とは、とても思えません。

このテーマは、米国の有名なアンドルー・ワイル博士と、メールで、ときどき話題にして、「日本でもみんなマスクしているのかい?」と、2人でよく苦笑しています。

まったく無駄とはいいませんが、ほとんど科学的にいったら、ほとんど意味がないと思います。

WHOトップの医療専門家たちによる、人々への恐怖のあおり方は、異常というか、ヒステリックというか、コミュニケーションのしかたや伝え方をよくわきまえず、人の心理への影響を理解していない、まるで人々を集団パニックか集団ヒステリーに扇動しているような、あまりに思慮の足りない、浅はかなものであるように思われてなりません。

自分たちにあまりに打つ手がないため、マスクを奨励することで、かろうじて、何か具体的なやっているように、表面上、見せかけているに過ぎないのではないか、と思われてもしかたありません。

科学的な、まず、すぐにできることからはじめて、われわれの免疫系をいかに守るか、という議論ではなく、適当に、政治的に、もっともらしく、何か政策をやっているかのように、見せかけたにすぎない、と思われてなりません。

たとえ、国連機関の専門家が言ったことでも、まさに、「王様は裸だ」ということは、よくあることだと思います。


皆さん、たくましく、したたかに、賢くなりましょう。

38億年の生物の進化の歴史を、たくましく勝ち抜いてきた人間の生命の生態防御のはたらきと知恵は、そんなにやわではないと思いますよ。
  

Posted by otsukako at 21:30Comments(0)TrackBack(0)

2009年05月05日

皮肉と嘲笑で彼女をあざ笑っていた英国人たちの度肝を抜いた、スコットランド人女性

インターネットでのニュース記事で、たまたま4月に海外にいた私が眼にした記事がありました。

写真を見ると、正直言って申し訳ないのですが、ブサイクなおばさんの顔写真があり、そのあまりに眉毛が濃いので、男の人が性転換でも女性になったのかと思ったほどでした。

さて、YouTubeでも、たいへん話題になっていたようで、たくさん動画で紹介されていましたので、さっそく見てみました。

Britain's Got Talent−まだ知られざる英国の才ある人物をオーディションで発掘しようというTV番組で、非常に人気があるようです。

今回の公開オーディションの場所は、スコットランドのグラスゴー。

ここで、皆さん、英国といって、イギリスだけを思い浮かべるようではいけません。イギリス、スコットランド、ウェイルズ、アイルランドを総称して、Great Britan と呼ぶわけで、たとえば、イギリス人と、スコットランド人は、気質も性格もかなりちがうようです。

イギリス人のイメージは、やや陰湿で、神経質で皮肉っぽい気取ったイメージがあり、それらしいイギリス人の特徴は、Mr. Bean ( ミスター・ビーン)という世界的に有名なコメディTV番組に、まさに十分に「誇張」されてユーモラスに表現されています。

いかにもイギリス人らしいいやらしさを誇大化して強調しているので、イギリス人を知る人みなに思い当たるところや実感できるところが多く、人気を呼んでいるようです。

神経質で皮肉屋なイギリス人に比べて、一方、スコットランド人は、頑固一徹。

実は、スコットランド人とイギリス人は、あまり仲がよくありません。

街中で、地図を見ながら道に迷っているようなら、スコットランド人なら、すぐに親切に声をかけて、手助けしてあげるが、イギリス人を見てみろ、ロンドンあたりで、道に迷っている人がいても、誰も声をかけてあげる親切なイギリス人など見たことがない。われわれ、スコットランド人は、そういう冷たいイギリス人とは全然ちがうのだ、などという話は、よくスコットランド人から聞かされたものです。とにかく気質がちがうようです。

さて、話を元に戻します。

その新たな才能発掘の公開オーディションに、すでに47歳のブサイクなスコットランド人のおばさんが登場し、皮肉交じりの審査員の質問に、プロの歌手になりたい、目標はエレーン・ペイジ、などと答えたものだから、審査員は、内心、「何をいってるんだろうねえ、このおばさんは。その顔と年齢じゃ、無理に決まっているでしょ。ちょっとおかしいんじゃないの。どうせ聞いても意味がないと思うけどね。一応は聞くけどね。ひどかったら、すぐに帰ってもらいたいねぇ。」というノリと態度でしたね。

私ですら、なんだろ、このおばさんは、という感じで、見ていましたからね。

会場に集まった聴衆も、まず全員が、このブサイクなおばさんをばかにして、あざわらっているような雰囲気でした。

選択した歌の曲名は、ミュージカルでも有名な「レ・ミゼラブル」から「I Dreamed A Dream.」(「私は、夢を生きた」)。人生でひたむきに自分の夢を生きようとし、その挫折にあっても、そのことにあえて真正面から向き合って歌う、重い、むずかしい曲です。

それなりの教養の深みと人生経験がないと、歌いこなせないような深みと重みのある曲です。

ちょっとでも、へたに歌ったら、それこそ伝統的な教養を誇りにするイギリス人、ときにインテリたちからは、いっぺんに嘲笑されることでしょう。

ところが、彼女が歌いだしたら、審査員と会場の人たちの表情が、一瞬にして、驚きに変わります。

唖然として、声を失う、とは、このようなことをいうのでしょう。

あまりに意外すぎて、あっけにとられてしまうほど、見事に、そのむずかしい人生の重みあるその曲を、まさに「表現」として、歌いきってしまったのです。

私も、最初は、ぽかんとしてしまったのですが、だんだんむやみに感動してきて、最後の盛り上がりでは、涙が出てきてしまいました。

彼女をこばかにしていた審査員と聴衆全員を、一瞬にしてノックアウトしてしまったのです。

私も、人を見かけで判断してはいけない、と大いに反省しました。

しかし、これだけの大勢の好意的でない聴衆を前にしながら、聴衆の大歓声の反応にも自分を失わず、ただただ自分の歌を見事に歌いきった彼女はすごい!脱帽です。お見事としかいいようがありません。

彼女の名前は、スーザン・ボイル。スコットランドの田舎町に住んでいるのだそうです。

顕著に皮肉交じりでこばかにしていた審査員が、思わず、反省のコメントを述べて、「あなたの歌を聞けて、とても光栄でした」と言ってしまうほど、彼女は、皆の思惑を根本からひっくりかえしてしまったのです。

バカにしていた聴衆も、総立ちになって拍手を彼女に送ります。


「おまえなんか、どうせ、だめだよ。無理に決まってるよ。」

こういう思惑を、現実にひっくりかえして、相手が、全面降参するくらいの結果を、目の前に突きつけてやることほど愉快で、痛快なことはありませんね。

私も、見ていて感動し、気分がすがすがしくなってしまいました。


YouTubeを見ていない人は、日本語訳のつけたものを見つけましたから、見てみてくださいね。

英国の番組は、YouTubeの動画を、そのままこちらのブログなどのサイトに埋め込むことができない(英国とGoogleとの著作権に関する同意事項による)ので、ここをクリックして、YouTube画面から、直接ご覧ください。

でも、ここで、やり手のプロデューサーである、辛口の批判をズバズバいうサイモンという審査員のひとりは、どうも事前調査で、このような展開をうすうす予想し、計画していたようでもあります。

こういうオーディションは、いきなり本番というわけではないでしょうし、予備審査というものもありましょうから、あまりにも意外なドラマチックなケースに対する人々の反響を予想、期待して、彼がマーケティング戦略をはかっていたような部分もあります。

というのは、この番組の直後、よく編集された番組内容が、全世界にYouTubeなどを通して、いっせいに公開され、実に短期間に知らされた事実であり、あまりに手際がよすぎるからです。

ねらいはあたって、すぐに公開された番組のYouTubeの動画は、あっというまに数百万のアクセスとなり、一大事件となります。

サイモンは、すぐに、このドラマチックなデビューをした彼女のCDは全世界で数百万枚売れると、読んでいたようです。

このような表に出ないマーケティングの仕掛け人が存在するのが世の中なのだということも見抜いてくださいね。

しかしながら、自分が長年、純粋に夢見ていたことがかなった彼女の顔を、その後、くりかえし、くりかえしYouTubeで見ていたら、最初は、男性が無理に性転換した人かと思うほどだった彼女の顔が、もはやブサイクなイメージではなく、ある種の人間的なかわいらしさを感じるくらいに印象が変わってしまったのには、人間心理というものの変わりやすさを感じました。

純粋に感動すると、実は陰に売り込みの仕掛け人がいた、というと、いやな印象を受けますが、現実には、そういう人がいないと広まらないのも現実であり、彼女自身が何か、画策したわけではないので、私は、素直によろこぶことにしました。

しかし、皆さん、皆さんも、彼女のように、自分の人生で、自分をこばかにしてくる連中がいたなら、そういう連中のハナをあかしてやることを生きがいにしたいものですね。

だって、痛快で、愉快で、気分がすっきりするじゃないですか。


  
Posted by otsukako at 21:30Comments(2)TrackBack(0)