このブログの目的は、経営者とその家族の方々の健康管理や「命もうけ」について役に立つような、眼からウロコの情報や発想を、まわりやすくお伝えすることにあります。
実は、先回のブログのあとに、がんになったら、抗がん剤を使うべきか、そうすべきでないか、という問題について、いろいろと書こうと思いましたが、非常に慎重で正確な判断を求められる問題なので、誤解がおこらないように書くには、じっくり慎重に書く必要があり、私の考え方も、日々進化してきているため、ある程度、集中して取り組む必要があるな、といろいろ考えているうちに、どんどん時間が経ってしまいました。申し訳ありません。
そういうなか、5月中旬には、米国ワシントンDCから、国立衛生研究所の国立相補・代替医療センターの元プログラム・デイレクターをしていた友人が来日して、いろいろ世話をすることに追われ、さらに、この5月27日には、東京大学医学部研究棟鉄門記念講堂で、「国際Heathy Agingシンポジウム―東洋の知恵と西洋科学の調和」と題して、「東西医学における『ヘルシー・エイジング』の知恵を探る」ことをテーマに、日本、中国、韓国、インド、チベットの伝統医学のエキスパートと、米国の、統合医療の分野では、世界的に有名なアンドルー・ワイル博士が一堂に会しての東西の医の知恵の共演ともいえる国際会議が開催されました。[巷で流行のアンチ・エイジング(Anti-Aging)とヘルシー・エイジング(Healthy Aging)の考え方の根本的な違いについてはここをクリックしてお読みください。]そこで、私の20年来の友人であるワイル博士を空港まで迎えにいったり、彼のスケジュールに何日かずっと同行したりで、けっこうバタバタしておりました。時代的にも意味のある東西の医の知恵を結ぶような国際会議が、なかなかに充実した内容で、よい盛り上がりのうちに、無事終了し、ほっとしているところです。
こういう時期は、ぴたっとアタマがモノ書きモードから離れてしまうので、長い空白をたいへん失礼いたしました。
また、金融と経済のエキスパートである木村剛氏が、先回の私のブログ記事を、思いがけず、全面的にご自身のブログで取り上げてくださり、感謝しております。その中で、木村剛氏が、抗がん剤の副作用で苦しまれたご親族の方について書いていらしたこともありますし、このことは、いざとなると本当にどう対処していいか、誰もが非常に悩まれる問題と思いますので、いずれ、非常に重大な抗がん剤への対処についての問題は、まとめて取り上げ、時間をかけて書くつもりです。
また、まだ次回のメルマガからでも、ダウンロードできるようにしておきますので、がんへの対処のしかたについての、具体的なアドバイスについては、無料の特別レポート「がんと宣告されたらどうしますか?−がんに対処する知恵」をお読みいただき、是非、参考にしてみてください。もうすでに、何人か非常に参考になったとのお便りをいただきました。
さて、前置きが長くなりましたが、ある北大を出た獣医の資格を持つ生物学の先生から、思いがけず、痛快な詩を、おしえていただきましたので、皆さんにご紹介します。
何かとグズグズと言い分けしやすい私たちの心に、ピシャリと気持ちのよい平手打ちをくらわせ、気持ちを新たにシャンとさせてくれる詩です。
私は、自分勝手な被害者意識や自己中の自己陶酔やナルシズムが先行しているような、どこか甘ったれたひ弱な「癒し」ごっこよりも、たとえツッパリであっても、こういう気概のある方が好きですねぇ。社会の犠牲者面をしたって、何の解決にもなりませんから。
昔から、茨木のり子という詩人の存在は知っていましたが、こういういい詩を書く方とはまったく知りませんでした。痛快で、気持ちを、スッキリ、シャンとさせてくれるような詩です。
自分の感受性くらい
茨木のり子
ばさばさ乾いてゆく心を
ひとのせいにするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れよ
ばかものよ
いやあ、お見ごと!
思わず、座布団1枚あげたくなってしまうほど、です。
平易な言葉ですが、奥深いですね。
何かうまくいかないことがあると、すぐに社会や時代や学校や家庭、さらには病院や医者のせいにして、自らのことは棚に上げて、まるで自分は被害者のようにいいわけしやすいのが、無責任なマスコミや多くの人間の常ですが、いわゆる「格差社会」の犠牲者のふりをしたところで、誰も助けてはくれませんし、問題は何も解決しませんね。
医療の問題にせよ、医療技術や薬や医者にあまりにも安易に頼る傾向が強く、日頃から病気にならない努力や生活をおこたっているから、いざというときにあわてて困るわけです。
私の領域に関して逆説的にいえば、たとえ、理想の病院を作れたら作れたで、人は安易にそういうものにすぐに頼ろうとするでしょうし。むしろ、かえって病院などない方が、へたに病気になれなくなるので、かえって人間は病気にならない努力をするようになるのではないか、と思うこともあります。
だって、自分の命、家族の命を、他人まかせにしている人が、世の中にはあまりにも多すぎますからね。
茨木のり子の言葉を真似れば、
やりなおしの利かぬほど大切な
自分と家族の命や健康くらい
自分たちで守れよ
ばかものよ
となりますでしょうか。
この思いあればこそ、私は「命もうけ」の知恵について、あえてブログを書いているんであります。
とはいえ、決して、この一喝「ばかものよ」は、私が上からえらそうに皆さんを叱りつけているわけではなく、私自身への一喝でもありますから、誤解なさらないでくださいね。人は、命とは、健康とかいう、日頃あたりまえにいつまでも空気のように存在するかのように思ってしまっているため、それを自分が失ったり、周囲でそういうことが起こらない限り、なかなかその重大性に気がつかないものなんですね、誰もが。だから、多くの人はタカをくくり、安きに走りやすいわけです。
さて、いつの時代、どんな社会でも、「天は自ら助くる者を助く」というのが、病気を治す場合でも、事業を成功させる上でも、真実なのではないかと思います。人や時代のせいにしたって、はじまらないし、結局、何の問題解決にもならないわけです。
その意味で、この詩は、まさに「天は自ら助くる者を助く」精神を人間の誇りをもって、きっぱりうたっているところが、われわれがつい陥りやすい甘ったれ根性への、痛快な目覚めるような平手打ちのようで、見事だと思います。それでいて、そのまなざしには人間への励ましと愛情がありますね。ああ、スカッとする気持ちのいい詩だ。
自分の感受性くらい( 茨木のり子 花神社 )という茨木のり子の詩集か、茨木のり子の6冊の詩集からエッセンスを集めたアンソロジーといえる本おんなのことば( 茨木のり子 童話社 )の掲載されていますので、是非、茨木のり子さんの他のスカッとするような詩もお読みください。