2007年07月31日

たくましいマザーテレサの知られざるエピソード

このブログは、おもに経営者と、その家族のための健康管理に役立つような「命もうけ」の知恵について、眼からウロコの情報や発想を、わかりやすくお伝えすることを、本来の目的としています。

以前、マザーテレサが、思いがけなくも、実にたくましい事業家的な手腕の持ち主であったことについて書いたところ、多くの反響をいただきました。

その記事を再読しているうちに、別なエピソードをふと思い出しましたので、この機会にご紹介いたします。

マザーテレサの信仰はカトリックでしたから、カトリック信者が多数を占める南米の国々の人々からは、強く指示されていたようです。

そんなあるとき、マザーテレサは、いきなり多大な寄付を南米の国から受けます。

もちろん、そのときは、南米の富豪の篤志家からの寄付と考えられていたようです。

ところが、あとからわかったことには、ふと「鬼の眼にも涙」だったのでしょうか、その送り主は、実は、いわゆる南米のギャングのボスだったとか。

南米の、その国の政府は、マザーテレサに手紙を出し、「送られたお金は、非合法なものであるから、こちらに返金してほしい」と懇願したようです。

ところが、マザーテレサは、その申し出をあっさり一蹴し、一度得た、そのお金を返金しなかったようです。

今までの彼女の行動から推測するに、

「 いいえ、このお金は、神様が、貧しい人のために与えてくださったお金です。きれいも汚いも、合法も非合法も、神のまえには意味を持ちません。神様が与えてくださったお金は、ありがたく貧しい人たちのために使わさせていただきます! 」

とでも、きっぱりいって、突っぱねたのかもしれません。

南米の国々は、カトリックの国ですから、マザーテレサの背後にひかえるカトリックの総本山、バチカン市国には、頭が上がらない。そういう彼女の宗教の後ろ楯となっている政治力をも巧みに使って、いったん受けた寄付は、頑として返さなかったのではないか、と思います。

たとえば、こういう例を考えてみましょう。

自分の幼い子どもたちが、何日も食べていないで飢えている。

なんとかしなければならない、と母親は必死になります。


そこに、たとえ盗まれたパンであっても、誰かから与えられれば、まずは何よりも飢えている子どもにパンを食べさせることを、鬼のようになって最優先するのが、強力なる母性の力でしょう。

誰からもかえりみられず、厄介者扱いされ、孤独に取り残されて、虫けらのように死んでいく人がある。

それを見ても、誰も実際には何もしようとはしない。

自分が、彼らにパンをやらなかったら、誰がやるというのか。


どうも、こういう鬼のような強烈な決意が、彼女にあったように思えてなりません。

たとえ、盗人がくれた金であっても、「お金に汚い、きれいはない。神様の思し召しだから、よろこんで、貧しい人のために使います。」と、きっぱり割り切っていたのではないでしょうか。

マザーテレサは、ノーベル平和賞を受賞した際も、多くの人が欲しがる賞そのものには、ほとんど感心がなかったようで、やはり、施設の皆を食わせるために、その高額な賞金が魅力だったから、あえて受賞を受諾したような感じを受けます。

そのような一端を示すエピソードとして、マザーテレサは、受賞のときのスピーチで、自分のためではなく、あくまで「貧しい人々を代表して」受けるとの発言をしていますし、彼女と話ができることを期待する世界の名士が集う受賞の晩餐会やパーティーには、眼もくれず、「そういうことに使うお金があったら、貧しい人に分けてあげてください。」とひと言いって、サッサと、その場を立ち去り、帰ってしまったそうです。

ここらへんが、慈善を売り物にするハリウッドの売名映画スターたちとは、全然違うところです。

私は、ノーベル賞の権威も価値も、否定しませんし、受賞そのものは素直に正当に、その価値を評価しますが、よくよく考えてもみてください。

ノーベル賞をつくったスウェーデンのアルフレッド・ノーベルは、何によって莫大な富を得たのでしたか?

ご存知の通り、ダイナマイトの発明によってです。

もちろん、人に役立つ発明でもありましたが、実は、ノーベルに天文学級の莫大な富を与える原因となったものは、皮肉なことに「戦争」なのです。すなわち、ノーベルは戦争長者であったわけです。

ノーベルは、そのことに非常に罪悪感を持ち、一生結婚もせず、家庭も持たないまま、孤独のままに、ひとりその生涯を終えたようです。

彼が、自らの罪滅ぼしとして、設立したのが、ノーベル賞であったわけです。

こういうノーベル賞の背景を洞察して、「ノーベル賞は殺人賞」と喝破した、東洋哲学の思想家も存在したようです。

「そんな贅沢なご馳走にかけるお金があるのなら、貧しい人に分けてあげてください。」といって、受賞パーティには、顔も出さずに帰ってしまったマザーテレサの肝のすわった太っ腹。

いったん受けた寄付金は、たとえ、盗人の金であっても、ありがたく貧しい人のために使おうとする強烈な信仰と精神。

やわでおせんちな甘い慈善根性では、短時間らい病患者の膿んだ足をさすってあげるくらいで、卒倒して逃げ出してしまうのが、関の山でしょうね。マザーテレサの施設では、シスターたちが、そんなことはあたりまえに毎日やるのですから!!

強烈な母性力あふれる、肝っ玉ゴッドマザーの、マザーテレサは、とにかく、一度にぎった金は離さないほどに、たくましい女親分だったのでしょう。

お見事です、テレサ親分!



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この記事へのコメント
5
ブログでははじめまして。和平さんを通じてご縁を頂いたものです。
過去の記事を拝見し、沢山の学びと共感を得させていただきました。
そしてブログの更新を楽しみに毎日お邪魔しておりました。

本日も素晴らしいお話をありがとうございます。
人間として、ここまで毅然と信念に基づいてただただ「人のために尽くす」人生を生き抜いた彼女に心からの敬意を表したいと思います。

でもきっと、マザー・テレサは「私に敬意は要りません。それよりも目の前にいる貧しい人にあなたの出来ることをしてください」とおっしゃるのだろうな、と思いました。

まだまだやわやわな身ではございますが、少しでもマザーの心に近づけるよう、成長していきたいと思います。
ありがとうございました。
Posted by yukiko at 2007年08月04日 01:37
うれしいコメントをありがとうございました。

自分と他人を分け隔てせず、「自他一如」の精神を実際に生き、行動していたマザーテレサには、「人のために尽くす」という意識すら、なかったかもしれませんね。

よくよく洞察するに「〜のために」という言葉は、他人と自分とのあいだに距離や隔たりがあるときに、使われる言葉ではないでしょうか。

おそらく、人を助けることにただ夢中であった彼女には、「〜ために」とか、「助けている」という意識すら、なかったのではないでしょうか。

おそらく、そうせざるをえなかったか、または、ただ無償にそうしたかったんだと思います。

Posted by 大塚晃志郎 at 2007年08月05日 01:41
1
すっごくかっこいい!
Posted by カラカラ亀さん at 2011年11月24日 21:12
大変参考になりました。
Posted by ? at 2012年08月17日 10:29