さて、本来のテーマの記事の中で、アレルギーとがんが対局の状態にあることについて触れましたが、ここで、症状が出る病気と、出ない病気について、すこし考えてみたい思います。
体という精妙なしくみを持つ、ひとつの自然環境になんらかの異常が起こると、生きていているがゆえに、その異常状態をなんとかしようと体が反応します。そのことによって、警報器のように異常を知らせ、体の異常をなんとかしようとする生命力がはたらきます。これが、症状として、体の外にあらわれる、と考えてみてはいかがでしょう?
もっとわかりやすく簡単に説明しますと、ようするに、体は、生命力がはたらいているがゆえに、体の中で起こっている異常を症状として表にあらわすわけです。
たとえば、赤ちゃんや、小さな子どもが、おなかが痛いときや指を怪我したときは、泣いて、そのことを親にわかってもらおうとするでしょう?
それに似ています。
すなわち、症状とは、それがなんであれ、体が示す泣き声と考えてもよいかもしれません。ようするに、泣いて、体に何がしかの異常がおこっていることを一生懸命訴えているわけです。
アレルギーは、体の免疫系が、過敏に異常にはたらきすぎている状態と考えられますから、その異常を訴える体の反応が、だんだん激しくなると、泣き声だって、悲鳴に近くなるでしょう。
ところが、私たちは、なぜ、そのような症状を出して、体が必死に何を訴えているかを、まったくもって理解しようとせず、症状自体が不快なので、いきなり、症状そのものを、なんとか撃退しようと、あれこれ強引なことを試みます。
その症状が、実は何かからだの中で一大事の火事のようなことがおこっていることを知らせてくれる警報かもしれないのに、うるさいからといって、その警報器自体を壊してしまおうとしたりします。
そのため、いきなり症状を無理矢理抑えて封じ込めてしまおうとするような対症療法の薬を安易に使ってしまいます。無理矢理症状を抑え込めば、抑えられた分、生命力は対抗して、さらに強い症状を示して、体の異常を知らせなければと、がんばります。
症状が強く激しくなると、さらに、もっと強い薬で押さえつけ、封じ込めようとします。すると、体の生命力は、ますます必死に反発して、もっと強い症状を出そうとします。
これが、多くのアレルギーの悪循環を生んでいます。花粉症の鼻炎、アトピー性皮膚炎、ぜんそく、なども根本は同じところに病原の根っこがあるように思います。
このようなイタチごっこは、原因を根本から解決しないかがぎり、ずっと症状をかえって悪化させてしまうことになります。
しかし、必死に抵抗して、激しく症状を示した生命力も、あまりに薬漬けにされ、ずっと全力疾走に近い形で、がんばってきたものが、とうとう、ある段階から、もうあかん、と疲れ果て、泣くこともできないくらいに、ぐったりしてしまうことがあります。
ずっと休みなく全力疾走してきて、もう、へとへとになり、歩くものしんどくなって、息が上がってしまうのと同じです。疲れ果てたので、泣き声すら出ません。
こうなってくると、免疫系が激しく反応していた状態から、疲れ果てて免疫系がうまくはたらかない状態に、移行したことになります。
ですから、強く出ていたアレルギー症状が消えたなら、へたをすれば、それは実は治ったのではなく、ただくたびれ果てて症状を出して訴えることもできない、免疫系の相当なお疲れ状態のまま、さらに病気が深く進行してしまったのだと考えたほうがいいのかもしれません。
こう考えていくと、まさに、症状が出る病気は、症状が出ない病気へと、つながっていることになります。
このように、病気は、表に表れる病気から、体の異常が深く進行していけば、症状もないまま、奥に異常が深く滞積していくような、もっと重い病気に移行していく、とも考えられるのです。