2006年06月27日

忘れられないバリ島の型破りな画家

 このブログの目的は、おもに経営者とその家族の健康管理と「命もうけ」に役立つような情報や発想を、わかりやすくお伝えし、日頃、一大盲点になりがちな大切な生命へのインテリジェンスをすこしでも養っていただけるようなヒントとしていただくためです。

 でも、健康についての知識ばかりでもつまらないし、結局、自分の命について理解を広げ、深めることは、「人生そのものをどう生きるか」という問題にも大きく関わってきますので、健康そのもののHow Toにとどまることなく、生きること全般についても、どうぞ広く自由に書かせてください。

 インドネシアのバリ島の中部にウブド村という、バリ伝統芸術のメッカがあります。歴史的に見ても、この村の周辺にバリに魅せられた芸術家が世界からやってきて住みついてしまったというような場所です。

 たしか1991年だったか、はじめてこの村を訪れて、強い日差しの中で、草木が輝き、段になった水田の水面が、太陽に光に輝き、村の人や子どもたちが、一日を終えて、夕方ちかく川や水田の用水路で、水浴びをしている姿を見て、「まさにゴーギャンの絵画そのもののような光景ではないか!」と驚いたことがあります。

 ウブド村の西にチャンプアンという地域があり、そこに、世界的に有名なバリ島の画家アントニオ・ブランコのアトリエ・スタジオがあります。

 はじめてそこを訪れてみて、驚いたのは、画家が実際に創作をする制作現場である部屋を自由に見学できたことで、展示してある絵画を見たあと、実際にまだ製作途中の絵が、そのまま見れることもありました。もちろん制作中は鍵を閉めていて、誰も入れませんが、そうでないときは、自由に見れるのです。展示されている作品に見入っていると、そこに突然、どこからともなくベレー帽をかぶった人があらわれ、親切にいろいろ説明してくれるので、いったい誰だろうと思っていると、本人だったので、さらにまた、びっくりしたものでした。

 見学者に何か制作中の絵にいたずらされたり、物を盗まれたり、心配や不安はないのか、と誰もが気にかけるのですが、本人はそれを笑い飛ばすようにいいます。

「ちゃんと念のために、セキュリティーはいるし、テレビモニターでも監視はしているから、何かあれば、ガードマンがすっとんでくるから大丈夫。それより、いつも人が人を疑い、何かされるのではないか、という恐怖心があるのが一番いけない。私は、人のなかにある神性(Divinity)というものをとにかく信じているんだ。人間には、もともと、そういう神性(Divinity)というものが備わっていると思う。だって、生まれてきた赤ん坊に悪人がいるかい?それを信じないから、人を疑い、心配し、気を病む。これは、すべて心の持ち方の問題だね。私の妻はいつも心配ばかりするので、だからいつもけんかばかりするんだよ。困ったもんだ。」

 私は、本人と実際に話しをしてみて、「へぇ〜、そんなものの見方があるんだな、たいしたものだ」と素直に感心したものでした。彼の人生観や世界観は、いろいろなすべての善悪を見通した上で、あえて「人の善性」を見ようとする楽天的で天真爛漫なもので、何か大いに励まされたような気がしたものでした。疲れたときに、「生きる勇気をもらう」とでもいうのでしょうか。

 彼といろいろな話をしていくなかで、哲学的な話にもなり、Holistic(ホリスティック)というのはどういうことか、と聞いてきたので、わかりやすく、その本質を説明したところ、ブランコ氏は、なかなかその発想が気に入ったようでした。また、東洋哲学の話になり、陰とか陽の原理について、一見矛盾対立し、相反するものが、実はこの世界のダイナミックな変化とひとつの全体のバランスを作り出している、という話をしたら、非常に感心して共感してくれ、「そうか!なるほど!だから、私とワイフの性格がまったくちがうわけなんだな。かえって、それでバランスがとれているというわけだ。これは、おもしろい!」とユーモラスな解釈をして、かなりよろこんでくれました。

 彼は、完全な菜食主義で、食事も、いつもただひとりで静かに時間をかけてひとつの儀式のように取るような人でしたから、健康管理にも細心の注意をしているようでした。

 バリ島に来るたびに、彼のアトリエを訪れ、彼と人生観や世界観について意見を交わすことは楽しみになりました。すぐに気を病む心配性な奥さんが、喘息もちで、季節や天候、また体調によって咳がひどくなるというので、その相談にのり、いろいろと具体的なアドバイスをしたところ、ブランコ氏は、「You have Divinity!」といって、とても感激してくれたようでした。

 それから、毎年のように、くりかえし会うたびに、他に来客中でも、その海外からの客に対して、私のことを気さくに「彼は、日本から来たホリスティックで重要な人です。」などと、やや大げさに紹介をしてくれたので、なんとも恥ずかしいやら照れくさいものでした。

 ブランコ氏は、いつも明るく陽気でおしゃべりでしたが、今まで夢中になって話していたかと思うと、いつのまにかいなくなり、どこに行ったのか、戻ってこないな、と思っていると、すでに自分の部屋で昼寝をしている、といったありさまで、全く愉快で天真爛漫な自由人でした。あくまで自分のペースで生きているというのでしょうか。でも、にくめないのです。

 ブランコ氏は、バリ島の女性をモデルにした、ダイナミックで写実的で、コラージュなどとも組み合わせた、かなり色っぽい絵を描くのですが、実は、彼の絵画そのものより、彼の人生そのものが実におもしろい型破りなドラマそのもので、私は、その生き方そのものに、なんともいえない人生の芸術を見る思いがしたのです。

 もともとアントニオ・ブランコ氏は、フィリピンのマニラ生まれのスペイン系アメリカ人です。だから、スペインの情熱的なラテン気質をもっているようです。はやくから早熟な絵画の才能には恵まれていたようですが、その後生活した米国本土で、芸術に理解がなく、その商業主義、物質主義一辺倒であった1940年代から50年にかけての米国のありかたに、とことん嫌気がさして、そこから思い切って脱出をはかります。

 米国本土からハワイにしばらく滞在し、そこから、いよいよ、芸術家のあいだでのうわさになっていた伝説の島、バリ島に船で渡り、永住しようというのです。

 バリ島を目指す途上、船の上で、当時のカンボジアの王子と知り合いになり、王子にせがまれて、カンボジアに招待され、そこでしばらく生活することになります。この展開もドラマチックですね。

 やがてカンボジアに別れを告げ、シンガポールを経て、1952年、とうとう念願のバリ島に到着します。飛行機のない時代ですから、すべて船なわけです。そのとき、彼は、すでに41歳。たいした冒険だと思います。そして、彼はウブド村に入ります。ところが、なんと、そこで財布を盗まれ、すってんてんの一文無しになってしまいます。

 しかし、こういうピンチのときに、不思議なめぐりあわせで、ブランコ氏は、バリ島の王族の人たちと知り合いになり、親しくなります。そして、彼らの助けで、川沿いのチャンプアンという一角の土地を与えられ、そこでの生活と永住を認められることになるのです。この展開も、まさにドラマですね。

 といっても、住む家は、あばら屋。キャンバスを買う金もない中、傘の布地を破ってのばし、木の枠に釘で打ちつけてキャンバスの代わりにして、作品の制作にうちこんだようです。そして、村のバリ舞踊の踊り子の娘、ニ・ロンジと結婚します。( ニ・ロンジは、当時、まだ17歳くらいだったのではないでしょうか。のちに女3人、男1人の4人の子どもに恵まれます。41歳から4人の子ども!たいしたもんです。)

 さて、そういうなかで黙々と作品の制作に励むうちに、彼のあばら家のような制作アトリエ兼住居を、彼のうわさを聞いてか、ある人が、訪問し、彼の絵を買い上げます。

 誰かといえば、インドネシア独立の父、時のインドネシア大統領、スカルノ大統領でした。アントニオ・ブランコ氏の人生は、このように伝説のような型破りなエピソードに満ち溢れています。まるで映画を見ているみたいですね。なんともドラマチックな人生ではありませんか!

 誰にも気さくでオープンな人で、気分がのれば話好きな人なので、世俗の人たちには、つい彼のことをかるがるしく普通のタダの人のように考えてしまう浅はかな人もかなりいたようですが、ブランコ氏のアトリエを訪れた世界の有名人のファンには、世界的な超大物女優イングリッド・バーグマンをはじめ、ハリウッドの有名映画スターたちが数多くいます。

 また、世界的に超有名な歌手のマイケル・ジャクソンとも親しく、人と交流せず、気むずかしいといわれているマイケル・ジャクソンのプライベートな直通電話番号を知っている、数少ない友人のひとりがブランコ氏でした。

  といって、そのような世界的に有名なスターにファンがいて、つきあいがあるからといっても、それを鼻にかけるようなことはまったくありませんでしたね。つまらないこだわりや陳腐な見栄や虚栄がない本当に天真爛漫な自由人でした。こういう型破りな人は、現在80歳の年齢未満のの世代の人には、まったくいなくなりましたね。仮にいても90歳以上の人ばかりです。

  彼のことを変人とかエキセントリックな人とか評する人も多かったようですが、私は、こういう型破りで、ドラマチックで実におもしろい人生を実際に生きてきた人が、大好きです。何かうれしくなり、励まされ、現実の壁に直面し、なんだか疲れてきたようなときに、あらためて自分の人生を生きる勇気をもらったような気分になります。

  残念なことに、ブランコ氏は、1999年に亡くなりました。1911年生まれということですから、88歳まで長生きされたことになります。ちょうど彼のアトリエ・スタジオのとなりに、ブランコ・ルネッサンス美術館をいうものを1998年から建設中で、2000年に完成しましたから、その完成を見ることなくして亡くなったこと非常に残念でした。

  彼と親しく交流できた8年間は、私にとって貴重な思い出になっています。ただ、こういうスケールの大きな人が、この世から、また一人いなくなってしまったことが、すごくさびしい。

  奥さんの喘息の相談にのったことのお礼としてなのか、彼の創作した詩が入った自作のコラージュ作品を、わざわざ贈ってくれたことがあります。サインの入った本物ですよ。大切にしまってあります。

  今では、息子さんのマリオ・ブランコ氏が、画家として、父親とはまた違う独自の作風で、アトリエ・スタジオで制作に励んでいます。今でも、彼や彼の子どもたち(ブランコ氏のお孫さんたち)ともたいへん親しくしています。村の娘で、9歳のときからブランコ氏のモデルや手伝いをしてきたアスマリも、もう今では、結婚して2年目で、26歳になりました。彼女も今でもスタジオの手伝いをしていて、行くたびに歓迎してくれます。皆、心がオープンで、親切で気持ちのよい人たちです。人生、こういうおつきあいが長く続くことはうれしいものですね。

  その後、ブランコ・ルネッサンス美術館が完成してから、あらためてバリ島のブランコ邸を訪れました。そして、案内された美術館の中に足を踏み入れたとたん、そこには、ブランコ氏らしくポーズをとって絵筆を握っている彼の写真が入り口に大きく飾られていて、思わず、生前、彼が笑顔で「アパ・カバル!」(「元気かい!」)といいながら、訪問を歓迎してくれたときのことが頭をよぎりました。

 ドームのような館内には、イタリアオペラが誇る盲目の天才テノール歌手、アンドレア・ボチェーリが高々に歌う「CANTO DELLA TERRA」という曲がかかっていました。まさにそれはブランコ氏と彼の人生にぴったりの曲でした。アントニオ・ブランコ氏のドラマチックな人生を讃えるにふさわしいような情熱的な歌声が館内に響き渡り、館内のどこかから、ブランコ氏が、いつものようにやや大げさに手を広げて、ニコニコと現れてくるような気がしました。

  その彼が「なにがあっても、とにかく人生はすばらしい!とにかく生きていることはすばらしいことなんだ!」と語りかけてくるような気がして、その調べに耳を傾けながら、私は、ただ涙がこみあげてきてなりませんでした。

  実はこのブログ記事は、バリ島のウブド村で書いています。書きながら、何度も涙がこみあげてきましたが、いつかは書きたいと思っていたことでした。

 人生をドラマチックな作品のように生ききった、型破りなバリ島の画家アントニオ・ブランコ画伯の「人生賛歌」と、人生を芸術として肯定しきる彼のよろこびの笑顔は、私が生きることにやや疲れを感じたときに、新鮮な「生きる勇気」と励ましをくれるのです。ブランコさん、ありがとう!

  

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2006年06月13日

この人を見よ

このブログは、おもに経営者とその家族の健康管理と「命もうけ」に役立つような目からウロコの情報や知恵をわかりやすくお伝えするのが目的です。ですが、ときどき、他のテーマでも自由に書きたいときがありますので、書かせてくださいね。とはいえ、ほんとうはみな根本の知恵はつながっているものですが。

 少し前に、マザーテレサが実はすごい腹のすわった肝っ玉ゴッドマザーであることをブログ記事に書いたところ、金融・経済の専門家として有名である木村剛氏が御自身のブログで取り上げてくださり、高く評価してくださったことに心から感謝するとともに、気をよくして、今回は別の大人物について書きたいと思います。

 私の人生で精神的な師、今どきの言葉を使えば、スピリチュアルなメンターともいえる人がいます。残念ながら、日本人ではありません。毎年1回はお会いして昼食をご自宅でごちそうになりながら、いろいろなテーマで話をしますが、会うたびに「この人にはかなわない」と打ちのめされ「いったいどうしたら、ここまで現実に事を為せるのだろうか」と自問自答させられます。また、お会いするたびに、よく考えれば取るに足りないことに気をとられがちな自分の心の垢が洗い流されていくような気持ちになるのです。私の心の支えになっている先生です。

 その方は、もう今年で95歳になりました。まだお元気で、お会いするたびにこちらの精神が励まされ、充電されるようで、ずっとできるだけ長くお元気でいて欲しいと、願っています。

 その人の名は、セン・プリンプアンキャオ博士。タイの厚生大臣を、その昔、10年ほど務めたことのある医師で、もともとは外科医です。10年間ずっとではなく、政権が変わるたびに出たり入ったり、断続的ではあったのですが、若い頃無医村で医療活動をしていたことのあるセン先生には、何よりも人望があり、例外的に政治的なかけひきを超えたところで皆から評価され、「やはり彼しかいない」と何度も厚生大臣に任命されることになります。

 厚生大臣在任中、タイに無医村が多いことを憂い、単なる診療所ではなく、入院できる病床のあるきちんとした病院を、なんとタイ全国に600箇所も現実に建設してしまいます。タイという国は、物事の決定が日本の政治以上にすんなり行かない国ですから、ひとつの病院を国の予算を使って建てるだけでも、その計画を実現するには、かなりむずかしい段階を経なければならず、相当たいへんなことなのに、入院できるちゃんとした病院をなんと600もつくったんですよ!信じられますか?これだけでも超人的な事業です。この事実を知って、私は腰を抜かすほど驚きました。いったいひとりの人間が、なぜそこまで成し遂げられるのだろうと。

 といって、日本の黒幕のドンだった人のように、自分がモデルになっている銅像をそれぞれ自分が寄付したり建設した施設の入り口にいやらしく誇示して建てるとなどということはまったくなく、自分の名と功績をあえて形で残そうとしません。

 それでいて、タイの公衆衛生にももっとも貢献し尽力したとのことで、タイ国民には「タイ公衆衛生の父」といわれ、人々から「ポー」(お父様)と尊敬と親しみをこめて呼ばれています。たしかタイの国王もタイ国民にそう呼ばれることがあるようですね。そして、国王からもセン先生はたいへん信頼されています。

 病院以外にも、第一線を退いた後に、NGOの基金や財団を17も作っていますすべて子どもや若い人たちに教育の機会を与えるためのもので、人に任せた後は、手放してしまい、やはり自分の名を残そうとはしません。

 この点、米国では、病院や大学やその他の教育機関の施設を建築する資金を出したり、寄付をしたりすると、そういう篤志家の名前を建物や研究所の名前につけたりして、あえて自分の名前を残そうとしますから、かなりちがいます。

 それ目当ての売名的な自称篤志家も、自分を売り込むことに巧みな米国人には、かなりいるように思われます。そういう連中の寄付を当てにしている大学や研究機関が相当あることも事実です。

 財産を所有したあとは、慈善家としての社会的な名声や評価や歴史に残る評価を欲しがるという、ある意味で、あさましいばかりのきりのない欲望をそこにかいま見ます。まあ、米国のように、なんでも金で解決をつけようとする国では、一種の名前を残すための取り引きみたいな部分があることは否めません。

 なんでもいやらしいくらいに自分を誇示しようとする自己顕示欲の強い西洋精神に対し、セン博士の行動、生き方、哲学には、あえて己を捨てる非常にハイレベルな東洋精神の奥深さと高貴な美を感じます。米国のマスコミをにぎわせて自己顕示したがる人間などは、しょせん、よくて2流、ただの3流の人間の世界でしかないように思えてくるのです。非常にハイレベルな東洋の精神に、自己顕示型西洋の精神など、しょせんかなうものではないな、と正直に思います。

 セン博士は、タイでAIDSが蔓延し、親が死んでしまい学校に行けなくなったAIDS孤児が非常に増えたときに、役人の決定にはやたら時間がかかることを知っているセン博士は、遅すぎる厚生省の対処などを待っていられないので、もうすでに引退した身でありながら、自分の信用と人間関係を生かして、ただちにAIDS孤児たちを学校に行けるよう、AIDS孤児ための教育支援基金を作ります。目の前にある問題にすぐ対処するために。

 そのとき、いつもさまざまな基金や財団を苦労して作りながら、あえて自分の名前をつけないままで人に任せてしまうので、ドイツとの合弁建築会社社長をしている息子さんが見かねて、「ひとつぐらいお父さんの名前そのものがついた基金があってもいいのではないでしょうか。」とセン博士を説得し、彼自らも基金設立に資金を提供します。そこで、たったひとつだけ「セン・プリンプアンキャオ博士基金」(Sem Pringpuangkeo Foundation)という博士の名をはじめてつけたのが、そのAIDS孤児への教育支援基金です。これ、80歳過ぎてからの話ですよ。

 現在でも、セン博士の基金によって、なんと1000人もの親を失ったAIDS孤児たちを学校に通わせています。ことしで95歳になるセン博士は、今でも、AIDS孤児たちを中心に子どもたちに教育の機会を与えるため、1000人もの子どもたちの面倒を見ているわけです。このことも驚異です。

 私もセン博士の基金とその活動を知って、せめてもの協力として、フォスター・ペアレント(里親)として、ひとりの子どもの学費補助として、もう寄付を続けてきて9年になります。ですが、不思議なご縁により、自然におつきあいのはじまった10年ほど前から、セン先生の口から基金への協力や寄付の勧誘を一度も受けたことはありません。彼は、ただ自分の行動とうしろ姿で淡々と示すだけです。

 だからこそ、安易な同情や正義を暗に売り物にすることの多い巷のボランティア慈善団体がきらいな私でも、セン博士の活動には、自主的に協力するつもりになったのです。

 寄付したお金は、通常は、ボランティア団体の人件費を中心とする事務経費や運営費としてかなりの部分があたりまえのように使われることが多いのですが、驚くべきことにセン博士の基金では、寄付したお金すべてが、事務経費に使われることが一切なく、定期的に小額ずつ子どもの銀行口座に振り込まれ、寄付したお金のすべて100%が子どものもとに行くようになっているのです。この徹底した姿勢にも驚かされました。

 人件費を含む事務活動運営費は、タイで日本車を売りまくり、タイ国土の大気汚染に大いに一役買っているであろうトヨタ自動車のトヨタ財団あたりから、日本大使館を動かして、ちゃんと寄付をひっぱってくるのです。タイで大もうけしているトヨタからは、日本大使館を通じてボランティア活動用の車を3台ほど寄付してもらっています。

 ここらへんが、現実を見据えて事を為す人のすごさで、すこしまえに記事に書いたマザーテレサと同じようなたくましさをかいま見ます。しかし、その現実の行動が、仮に寄付をもらったとて精神的な誇りと実にうまくバランスをとっているのです。宣伝・広報活動は、まったくといっていいほどやらず、ほとんど口コミだけでタイ国内だけでなく海外にも協力者が広がっています。

 そして、セン先生自ら、年末には、1000人の子どものすべてのフォスターペアレントに対して、直筆のお礼状を今でもかならず書いておられます。90歳を過ぎてもかならずやっていることで、その努力には本当に頭が下がります。それに、本人は、まったく無給ではたらいているのですよ。

 こういう子どもたちや若い世代への教育支援が、彼のメインの仕事だったわけではありません。

 タイの国王からじきじきにたのまれて、プミポン国王の主治医を7年ほど務めたことがあります。国王は、セン先生にずっと侍医でいて欲しかったようですが、彼は、早々に自分から辞退してやめてしまいます。セン先生が自らおっしゃるには「自分がいつまでもそういう地位に長くいては、後輩が育たない」というのです。

 また、たとえばタイ国王を12年ごとに祝う記念行事がありますが、そういうときには、セン先生は、式典の最前列に座るべき人なのです。それでも、セン先生は「自分が出て行くと、国王も私が高齢ゆえに気にかけるであろうし、最前列に座りたい人たちが座れなくなろうであろうから、出席しない」と辞退して出席しません。

 セン先生は人を育てるために、見事なほどに、自分ははやく身を引いてしまいます。セン先生は、人間を育てる本物の教育者であると痛感します。

 この話を、長年親しくしている哲学的な見識の深いインドネシア在住の華僑の実業家の友人に話をしたら、ひどく感心し「ああ、高齢になっても、いつまでも自分の権力の椅子に未練がましくしがみついて離れようとしない中国の長老たちが恥ずかしい。」とうなだれていました。そして、こうもいいました。「こういう人間こそが本物だ。」

 セン先生は、若いときには、もともと無医村で朝から晩まであらゆる病人を診察してきたような医師ですから、専門は外科ですが、産婦人科でも小児科でも、ほとんど全科をまんべんなく臨床医としてこなせます。いくつかの病院長も、3つの病院で務めたことがあります。

 貧しい村人の診察をしていたので、彼らにお金がないので、お米や野菜などを診察費の代わりにもらう、などということも多かったようです。また、ビルマ戦線に向かう日本兵にもたくさん会い、けが人に対して手当てをしたとのことです。

 さらに、タイ人の外科医師としてははじめて、シャム双生児(体の部分がくっついて生まれてきてしまった赤ん坊の双子)の分離手術に成功したすぐれた腕を持つ外科医でもあります。それゆえ、日本で外科医をして名高かった外科医、故、中山恒明博士とは親友でした。

 セン先生は、タイの大学の医学部・歯学部では、外科や産婦人科、公衆衛生の講義もしています。また、医学の歴史にも非常にくわしい。

 さらに、セン先生は、病院だけでなく、ある日本人の篤志家の協力と寄付で、看護学校も作っています。それでいて、そういうものをまったく自分の所有物のようにはしません。

 加えていえば、歴史の中で、タイに西洋化の大きな波が訪れたときに、タイの伝統医学はことごとく否定され、現代西洋医学一辺倒に医療が独占されるようになり、タイの伝統医学が消滅するかもしれないという伝統医学にとって危機的な時期がありました。

 それを、私財を投げ打ってシリラート病院に、タイ伝統医学の歴史博物館を作り、またタイ伝統医学のカレッジを作るなどして、ひとりタイ伝統医学の知恵と知識を、現代西洋医学一辺倒の波から守った人物がいます。その先生の名は、ウアイ・ケツシン博士。スポーツ医学の権威で、私のタイでのもうひとりの恩師です。ウアイ先生はすでにお亡くなりになりました。

 私財をなげうって医学界で孤立しながらも、命がけでタイ伝統医学を守ろうとしたウアイ先生を、厚生大臣時代、親友として、裏から社会的にバックアップしたのが、セン先生でした。つまり、ウアイ先生とセン先生という2人の傑出した知恵ある医師がいなければ、タイ伝統医学の知恵は、歴史の西洋化の波にもまれ、完全に絶滅していたかもしれないのです。

 このお二人の命がけの努力は、時を経て見事に実を結び、1990年代に入ってから、国立のタイ伝統医学研究所がタイ厚生省内に設立され、1994年から2004年を、タイ伝統医学を再評価する10年計画としてプロジェクトが組まれ、タイ伝統医学を大いに見直そうという大きな動きにつながります。今では大学医学部の課外講座にタイ伝統医学が取り入れられるようになり、タイ伝統医学の学部を設ける大学も出てきました。

 セン先生の生きざまは、世の中に必要なこと、大切なことを為すべく、自分は、ただやるべきことをやり、黙々とうしろ姿でそれを示すだけ。名を残そうともせず、ここ20年くらいは、子どもたちや若い人たちの将来の可能性のために、教育というチャンスを与えるという種まきに徹しています。セン先生は、自分の為しうるミッションというものをしっかり自覚しているのだと思います。

 しかしながら、ひとりの人間で、ここまでたくさんの仕事を、現実の実績を生みながらこなせるものなのかと、つくづく感じてしまいます。

 そういうセン先生ですから、人の本音や中身を見抜く眼力も非常に鋭く、ただセン先生の評判や名声にあやかりたいような政界や財界からの訪問や挨拶は、極力断って、あまり人とは会わないようにしているようですし、タイ社会の名士の集まる夜の会合など、ここ数十年まったく参加していません。残り少ない命の時間は、これからの若い人たちのためにだけ使おうとはっきり決めているのだそうです。

 自分の人生での残された貴重な命の時間をとても大切にされ、それを実践していて、毎朝の起床は、午前4時。それから1時間の瞑想。そのあとに1時間、部屋の掃除や片付けをしたあと、書類などの書き物を6時くらいからはじめます。夜の就寝は、毎日、午後8時か遅くとも9時には休みます。非常に規則正しい生活をしておられます。

 95歳になっても、記憶力も判断力も抜群で、頭の回転もよく、私が書き送った手紙の内容をちゃんと覚えています。まったく、おそれいるばかりです。

 政治家やタイ名士の社交界の会合には、いっさい顔を出しませんが、タイ北部のチェンライにある子どもたちの施設や学校には、高齢でも飛行機で足を運び、子どもたちに話をしに行きます。あくまでこれからの子どもたちや若い人たちに可能性の種まきをするためだけに、会合に出かけます。

 こういう無私で大きな人物がタイでいなくなりました。他の人が苦労の末切り拓いた道に、うまく要領よくあとから乗っかって、あたかも自分ひとりで最初からやったかのように見せかけるような、恥を知らない、あさましい調子のよいタイ人ばかりが、今日では指導者にも目立ちます。今は、せこい小物ばかりです。タイの厚生省役人も同じ。

 セン先生と話をしていると、明治の日本人のスケールの大きさと同じものを感じます。セン先生ひとりで、おそらくふつうのタイ人10000人くらいの仕事をしていると思います。

 日本でも、今では、明治のように世の中や人のためになるような大志をあたりまえのように抱く人は、見かけなくなりました。

 自分の会社の売り上げが何百億円だとか、1年で株のデイトレで何億もうけたとか、年収が数千万とか1億だとか、そういうことばかりがすごくて成功者の尺度であるかのように、浮かれ、踊り、自己陶酔する人間や若者が非常に現在の日本に多くなったように感じます。老いも若きもようするに哲学がない。

 若い人が、そういうお金を稼ぎたいという欲望に正直なことはむしろ大いにけっこうなことですが、自分の稼いだお金の額を示して、「私はいくら稼いだ」と自慢げに、安易に成功者づらできる人の心理が私にはよく理解できません。

 全部ただ自分のことだけじゃないですか。その程度で、人生や世の中のことについて、わかったようなことを得々という、あまりにも単純で短絡的な人たちが多すぎるように感じます。

 自分の稼いだ金を誇示することなど、世界に存在する本物のけたはずれの金持ちはゼッタイやりません。そういうことをするのは小物ばかり。そのことを宣伝に使い、売り物にして稼ぐネタにしようとする輩だけです。だって、これだけ大金を稼いだなんて公言すれば、泥棒や強盗、そして誘拐犯に真っ先にねらわれるじゃないですか。本物の金持ちがそんな馬鹿なことをやるわけがありません。そういうことを誇示するということは、俺の稼いだ金をねらってくれといっているようなもので、実におろかです。平和ボケした日本だから、そういうことににぶいのでしょうか?

 昔、私がインドネシアのジャカルタで華僑の実業家の友人から紹介された古いジーパンをはいた労働者風の男は、初対面の人には、アイスクリームの工場と町の食堂を経営しているなどと、身分を紹介していましたが、実は、私の華僑の実業家の友人が笑いながらおしえてくれたところによると、資産はかるく見積もって800億円以上ある人物というから、たまげたものです。

 けたはずれの金持ちは、身を守るためにも決してお金持ち風には見せないものなのです。こういう人でも、一人息子がぶらぶら大学にも行かずに家で遊んでいるので、痛い頭を抱えていて、成り行きでその息子さんの相談にのる羽目になってしまいました。大金持ちとて、家族の悩みは尽きないのだな、と痛感したものでした。

 稼いだお金の額そのものによる価値尺度がすごいことであるかのように若者に植えつけたのは、きちんとした哲学がない浅はかな先輩たちなようです。たかが米国のドナルド・トランプ程度の人間にあこがれるレベルの低い田舎者成金ダースベイダーみたいな先輩たちに、悪い意味でオーム真理教のときと同じように若い人たちが単純に洗脳されてきているんじゃないかと心配になります。そういう人たちのほとんどが、巧妙な米国流のやりかたの影響を受けています。

 稼いだら稼いだで、心の内面の不安はそのままで、「急に大いに儲けた場合は、寄付をしないと、交通事故などの事故にあうというスピリチュアルな法則がある」などとわかったようなことをいって、自分が事故に合わないためにちゃんと寄付をする、という実にちゃっかりした根性のネット成金の若者がいるんですね。

 バカじゃないだろうか?実にせこい根性じゃないですか。金を寄付することで、神様から自分の身の安全を保証してもらい、運命とちゃっかり取り引きしようって根性なんでしょうか?こういうちゃっかりしたせこい根性には人としての「徳」などは感じられません。

 そういう根性が、どれほどあさましい卑しい根性なのか、あまりに自己中なので本人もちっともわかっていないんでしょう。

 少なくもとヨーロッパあたりの貴族階級の大富豪は、そういう卑しい動機で寄付や慈善行為はやりませんね。彼らは、自分たちのミッションとして、慈善行為をやるんです。それが、あたりまえの義務だと思っていますね。

 金を稼げば、人はチヤホヤします。勝てば官軍ですから。誰も「王様は裸だ」とは親切におしえてくれません。

 寄付行為は、そういう調子のよい手前勝手な取り引きではない。金を寄付したからとて、神様と取り引きなどできません。そういう自分中心のちゃっかり根性など、神様はお見通しで、そういうせこい根性なら、いずれちゃんと瀕死の事故か大病にあうでしょうね。寄付は、こすい取り引きのためのものではない。

 こういうバカに限って、人生についてえらそうにわかったようなこといって、若者を扇動し洗脳してカリスマになり、自分がひとり儲けている。たちの悪い新興宗教と同じですね。こういう身の程を知らぬバカも、自分が末期のがんにでもなれば、化けの皮がはがれ、裸の自分にひんむかれて、いざというときに金が全く役に立たないことを思い知り、あわてふためいて終わり。

 何百億円稼ごうが、そういう人は、悪性の末期がんにでもなれば、そんな価値観など一発で吹っ飛びますから。

 別にお金を稼ぐことが悪いなんて思っていませんし、大いに儲けて生き金をいいことに使ってほしいものですが、それを稼いだ額そのものを評価の基準として判断してしまうところが私はどうも同意できません。人それぞれ持ち味が違いますから。

 残念ながら、そういう自己陶酔的な単純な基準でばかり、世の中の成功をはかれなくなってきているような非常に幼稚な社会に日本がなりつつあるように思われます。

 「自分は傷つきたくない症候群」の若い人はかなり目立ちます。すぐにわかったつもりで悟ったようなことをいいますが、いざ自分に都合の悪いことになると自分がカッコ悪いので「すぐに逃げる」か、「とぼけてあいまいにごまかそう」とします。自分の言ったこと、やったことから逃げないで、責任感を持って正面から対処する姿勢がありません。

 かっこ悪いこと、都合の悪いことからは、すぐに逃げるのです。まあ、これは、東大卒のエリート役人も同じですが。

 そういう自己陶酔者やナルシストたちが、日本の若い世代に急増している感じがしているのですが、そんな中、自分のことをかえりみないような偉大なる大バカが若者の中から出てこないかな、と期待しています。

 ひとりで10000人分もの仕事をしていながら、それを自分のやったこととして誇示せず、名を残そうともせず、ただ人にチャンスを与え、人を育てることに専念しているセン先生のような、明治生まれのスケールの大きな人間の生きざまにふれるたびに、自分の稼ぎのことだけで英雄気取りになり、うぬぼれるレベルでさわぎ、自分が事故にあいたくないからスピリチュアルな行為として寄付するのだなどというふざけた人間たちには「この人を見よ!」と、思わず一喝したくなってしまうのです。



  
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2006年06月04日

もともとの西洋医学の本質は、現代医学とはかなりちがう

このブログは、おもに経営者とその家族の健康管理と命もうけに役立つような、目からウロコの情報や知恵をわかりやすくお伝えすることが目的です。

さて、先回、もともとの西洋医学の発想が、かなり東洋医学的な発想に似ていたことを書きましたが、もう少しもともとの西洋医学の発想の本質を見てみましょう。

古代ギリシャのヒポクラテスに代表されるもともとの西洋医学の本質の要点を、単純化して簡潔に述べますと、次のようになります。( 論文ではないので、いちいちそれぞれのポイントの出典は書きませんが、古代ギリシャ語原語からじかに翻訳した「ヒポクラテス全集」(ラテン語名 Medicus Hippocraticum )とハーバード大学出版局から出ている英語訳全巻をきちんと目を通した上で、書いていることですからね。あなどってはいけませんぞ。 ハッタリかましているわけじゃないんです…)

 まず、患者さんと医師との関係性を大切にする医療をとなえ、「医師の居場所とは、患者のベットサイドである」との言葉をヒポクラテスは残しています。また、医師〜患者との信頼関係が、病気の治癒に大きく影響することもすでに見抜いていたようです。

 現代では、患者さんのベットサイドの近くにいる人は、学会だゴルフだと忙しそうにしている医者よりも、むしろ看護士さんやヘルパーさんのようですが。

 また、「まず、患者を害するな」(ラテン語で Premum Non Nocere. 英語でFirst, do no harm. )という医療で非常に重要な言葉を残したのも、ヒポクラテスとその弟子たちでした。まさに、患者の生命の安全をなによりも重視する医の精神と心がまえの原点ともいえそうです。

 今では、医療の科学技術や薬物を過信してか、患者がすでに相当副作用で苦しんでいて、かなり体力を消耗しているにもかかわらず、あえてさらに強い薬を投与してしまいがちな現状が事実としてありますね。

 たしかに、がんの腫瘍は小さくなったが、患者さんは、抗がん剤の副作用の苦しみでのたうちまわって死んでしまった、なんてことが、あたりまえに毎日おこっているんです。皆さん、あまりにそういう現実に無知すぎるので、しっかり覚えておいてくださいよ。

 また、病院でも、病気そのものよりも薬の副作用で死亡する例が非常に多いという事実もあります。まるで薬害です。

 となると、現代西洋医学が、もともとの西洋医学の大前提のルール「まず、患者を害するな」という根本原則をきちんと守っているようには、とても思えませんね。もともとの西洋医学の大原則から、いつのまにか西洋医学自身がはずれてしまっているんですよ。

 さらに、もともとの西洋医学は、生活習慣やライフスタイルを根本から正し、体質に合わせた食事療法を中心として、病を効果的に癒すべく周囲の自然環境にも留意し、沐浴、水治療、薬草療法、マッサージなどの自然療法を活用して、体の本来持つ自然治癒能力を十分に生かしバランス回復をはかる総合的なアプローチを主としていました。

 すなわち、もともとの西洋医学は、総合的な自然医療的養生医学といってもいいかもしれません。

 また、もともとの西洋医学は、人間を取り巻く自然環境、すなわち風土や気候、季節の変化や空気・水・土壌といったものが、深く人間の健康・病気に関わりを持つことを洞察していた、卓越した「環境医学」でもありました。ですから、ヒポクラテスは、環境医学の父といわれているほどです。

 今の現代医学の病気治療に、こういうことが完全に抜けていませんか?
 
 さて、現代西洋医学の病院は、果たして病を癒すにふさわしいような、患者の回復に適した「癒しの環境」になっているでしょうか?

 また、科学的であるという意味をはきちがえて、薬物による病気を叩く対症療法ばかりに終始し、総合的な自然医療的養生アプローチをことごとく排除して、やたら力任せに高度な検査や薬や手術の技術ばかりをたよるだけの医療になっていないでしょうか?

 そして、もともとの西洋医学の本質は、どちらかというと、現代医学のように病気を敵として攻撃して制しようとする「病気志向の医学」ではなく、むしろ、体にはたらく内なる自然の力をバランス回復に最大限に生かして病を治癒に導く「治癒志向の医学」にあったようです。

 つまり、およそ3500年くらいの、キリストよりも長い歴史を持つもともとの西洋医学の本質は、ここ150年くらいに急速に病気研究中心に細分化・専門化した機械論的な「バラバラな部門で生体の修理」をするような現代西洋医学の発想とは、かなりちがっているのです。

 ご存知でしたか?意外に知らなかったんじゃないですか?

 こうなってくると、本来の西洋医学の本質は、ますます東洋医学の考え方に近い感じがしませんか?

 いままで、ほとんど誰もはっきりいわなかったことですが、ほんとうに驚くべきことに、もともと医学・医療の本質は、東西同根ともいえるほどに、非常に似ているのかもしれませんよ。

 
  
Posted by otsukako at 07:27Comments(3)TrackBack(0)