2009年07月18日
こわがって神経質にマスクをすると、かえって新型インフルエンザにかかりやすいかも?
7月中はタイに滞在しておりますが、この国では、いったんは新型インフルエンザの騒動が収まったと思いきや、またテレビや新聞等のマスコミを中心に、外出のときは、かならずマスクをしろ、人ごみの中に出かけないで家にいろ、大勢人のいるところへ行くな、とか、専門家とされる人たちが、一種のかなり無茶なプロパガンダを、また繰り返し強要するようになってきました。WHO(世界保健機関)がお尻を叩いているのか、いったい誰が背後にいるのか、と思いたくなるほどに、急に再びこぞって、専門家たちが騒ぎだしています。学級閉鎖もけっこうあるようです。
ここで、逆説的に、「もしかすると、マスクをしている人のほうが、新型インフルエンザにかかりやすいかもしれない」という、一見、野蛮な仮説を立てて考えてみましょう。
あながち、これは、まったく根拠がない、とはいえないのです。
「えっ?!まさか??」と思われるかもしれませんね。
ただし、不安や心配、ウイルスヘの恐怖心にかられて、マスクをしている人、というように、限定条件がつきますが。
インフルエンザにかかる、かからない、は、その人の免疫力のはたらきしだいであることは、誰でも理解できますね。
だから、同じような条件に置かれても、かかる人もいれば、かからない人もいるわけです。
この生体の防御機構の中心ともいえる免疫力のはたらきを左右する要因のひとつは、なんでしょうか?
実は、人間の心や感情が、免疫力を作用するという、かなり明確な事実があります。
その心と免疫系のはたらきの関係を研究する分野に、精神神経免疫学( Psychoneuroimmunology )というむずかしげな名前のついた研究分野があります。略して、PNIともいいます。
ひとことでいうならば、心をつかさどる脳神経を中心とする神経系と、ホルモンなどの分泌する内分泌系と、生態防御機構の要である免疫系は、とても密接なつながりと関係性をもっている、ということで、それぞれがバラバラにはたらいているのではない、ということです。
すなわち、心の状態、とくに感情は、免疫系のはたらきに大きな影響を与えることが、すでにわかっているのです。
たとえば、急に最愛の配偶者を失い、悲嘆にくれ、絶望的な気分になりますと、あっというまに免疫系のはたらきは低下し、生態防御の力、すなわち、免疫力が急激に落ちてしまうことがよくあります。
希望を失い、悲嘆にくれ、絶望すると、免疫力は、いっきょに落ちます。
また、つねに、いったいどうなるかわからない先が見えない不安や恐怖心をストレスとしてかかえてしまい、びくびく神経質でいると、それだけで、簡単に免疫力は落ちてしまうのです。
ということは、そういう気持ちのままでマスクをかけていて、いつもそういう恐怖や不安や心配の感情をストレスをくりかえし呼び起こし強化していると、それだけで、免疫力は低下してしまう、というわけです。
ならば、しょせん、ある程度、病人のつばきなどを、じかに受けることは防げても、しょせん、きわめて小さいウイルスがマスクの穴を通過することを阻止したり、除去したりは、所詮、無理なのですから、恐怖心や不安にかられて、神経質に、びくびくしていると、それだけで、インフルエンザにかかりやすい自分の生体内部環境をつくって、本来の免疫力のはたらきを落としてしまう、ということになるわけです。
よって、びくびくこわがって、恐怖心からマスクをいつもかけなくては、などと神経質に思っている人ほど、精神神経免疫学の立場から考えれば、まさに、びくびく恐れれば恐れるほど、流行のインフルエンザにだって、当然かかりやすくなりますよね。
すなわち、もしかすると、むやみに「こわがってマスクをする人は、かえって新型インフルエンザにかかりやすいかもしれない」というパラドックスが、論理的に考えて、筋が通っていて、正当性を強くもってくるわけです。
おわかりになりましたか?
どうせマスクをするのなら、恐怖心からではなく、たとえウイルスを防げるという科学的な根拠はなくても、どうせマスクをするのなら、これで絶対ウイルスは防げるのだ、と自信を持ってするほうがいいと思います。
という意味では、科学的ではなく、文学的、いや多分に政治的判断、ともいえるWHOのマスク奨励は、考え方によっては、暗示効果があるともいえるのです。
ここで、逆説的に、「もしかすると、マスクをしている人のほうが、新型インフルエンザにかかりやすいかもしれない」という、一見、野蛮な仮説を立てて考えてみましょう。
あながち、これは、まったく根拠がない、とはいえないのです。
「えっ?!まさか??」と思われるかもしれませんね。
ただし、不安や心配、ウイルスヘの恐怖心にかられて、マスクをしている人、というように、限定条件がつきますが。
インフルエンザにかかる、かからない、は、その人の免疫力のはたらきしだいであることは、誰でも理解できますね。
だから、同じような条件に置かれても、かかる人もいれば、かからない人もいるわけです。
この生体の防御機構の中心ともいえる免疫力のはたらきを左右する要因のひとつは、なんでしょうか?
実は、人間の心や感情が、免疫力を作用するという、かなり明確な事実があります。
その心と免疫系のはたらきの関係を研究する分野に、精神神経免疫学( Psychoneuroimmunology )というむずかしげな名前のついた研究分野があります。略して、PNIともいいます。
ひとことでいうならば、心をつかさどる脳神経を中心とする神経系と、ホルモンなどの分泌する内分泌系と、生態防御機構の要である免疫系は、とても密接なつながりと関係性をもっている、ということで、それぞれがバラバラにはたらいているのではない、ということです。
すなわち、心の状態、とくに感情は、免疫系のはたらきに大きな影響を与えることが、すでにわかっているのです。
たとえば、急に最愛の配偶者を失い、悲嘆にくれ、絶望的な気分になりますと、あっというまに免疫系のはたらきは低下し、生態防御の力、すなわち、免疫力が急激に落ちてしまうことがよくあります。
希望を失い、悲嘆にくれ、絶望すると、免疫力は、いっきょに落ちます。
また、つねに、いったいどうなるかわからない先が見えない不安や恐怖心をストレスとしてかかえてしまい、びくびく神経質でいると、それだけで、簡単に免疫力は落ちてしまうのです。
ということは、そういう気持ちのままでマスクをかけていて、いつもそういう恐怖や不安や心配の感情をストレスをくりかえし呼び起こし強化していると、それだけで、免疫力は低下してしまう、というわけです。
ならば、しょせん、ある程度、病人のつばきなどを、じかに受けることは防げても、しょせん、きわめて小さいウイルスがマスクの穴を通過することを阻止したり、除去したりは、所詮、無理なのですから、恐怖心や不安にかられて、神経質に、びくびくしていると、それだけで、インフルエンザにかかりやすい自分の生体内部環境をつくって、本来の免疫力のはたらきを落としてしまう、ということになるわけです。
よって、びくびくこわがって、恐怖心からマスクをいつもかけなくては、などと神経質に思っている人ほど、精神神経免疫学の立場から考えれば、まさに、びくびく恐れれば恐れるほど、流行のインフルエンザにだって、当然かかりやすくなりますよね。
すなわち、もしかすると、むやみに「こわがってマスクをする人は、かえって新型インフルエンザにかかりやすいかもしれない」というパラドックスが、論理的に考えて、筋が通っていて、正当性を強くもってくるわけです。
おわかりになりましたか?
どうせマスクをするのなら、恐怖心からではなく、たとえウイルスを防げるという科学的な根拠はなくても、どうせマスクをするのなら、これで絶対ウイルスは防げるのだ、と自信を持ってするほうがいいと思います。
という意味では、科学的ではなく、文学的、いや多分に政治的判断、ともいえるWHOのマスク奨励は、考え方によっては、暗示効果があるともいえるのです。
2009年06月25日
タイの厚生省、新型インフルエンザに関して、WHOに意見
つい最近のことですが、タイの厚生省が、WHO(世界保健機関)の新型インフルエンザに対する姿勢に、とうとう意見するようです。
WHOが、まるでむやみに世界の人々の不安や恐怖をかきたて、人々に精神的なパニックをひきおこすような、新型インフルエンザに関する発表をするので、タイの厚生省は、むやみに人々の不安を掻き立てるような伝達のしかたを、もっと考慮して行なってほしいし、パンデミックの定義も、再検討する必要があり、病気による死者の数などをもっと考慮したものにしてほしい、と、意見を述べるようです。
タイの厚生省、なかなかいい正論をいうつもりですね。
本当は、日本あたりが、こういう世界に対するリーダシップをとり、バランサー役をするべきなのですが、なさけないことです。
これくらいのことは、相手がWHOだろうが、世界中から言うべきだと思います。
実際、3月すでにあったらしい総会では、世界各国からWHOの発表姿勢に対して抗議にも似た意見が多数あったようです。
となると、うれしくなって、ついタイ厚生省をほめてしまいましたが、あの国は、まわりの状況に合せてイエスとノーを使い分ける顔があるので、単に他国の動きを見ていて、自分たちも、その状況の流れに遅れをとって国内から批判を浴びないように、あわてて、他の国の意見に便乗して、そうするだけなのかもしれませんが。
けっこうタイという国は、まわりの顔色を見て、かなり日和見的な行動をとる傾向が強い国ですからね。
でも、この前のブログで、私が単にでたらめをいっているわけではないことが、おわかりいただいたいたのではないでしょうか?
皆さん、よく物事を見て、自分の頭でよく考えて、あえて勇気を持って、どんなにもっともらしい権威であっても、「王様は裸だ」といえる気概を持ちましょう。
たとえ国連機関であってもです。
国際的な情報操作かもしれないパニック報道に惑わされないように!
Be a Good Thinker !
かしこく考え、かしこく自分たちの身を守りましょう。
WHOが、まるでむやみに世界の人々の不安や恐怖をかきたて、人々に精神的なパニックをひきおこすような、新型インフルエンザに関する発表をするので、タイの厚生省は、むやみに人々の不安を掻き立てるような伝達のしかたを、もっと考慮して行なってほしいし、パンデミックの定義も、再検討する必要があり、病気による死者の数などをもっと考慮したものにしてほしい、と、意見を述べるようです。
タイの厚生省、なかなかいい正論をいうつもりですね。
本当は、日本あたりが、こういう世界に対するリーダシップをとり、バランサー役をするべきなのですが、なさけないことです。
これくらいのことは、相手がWHOだろうが、世界中から言うべきだと思います。
実際、3月すでにあったらしい総会では、世界各国からWHOの発表姿勢に対して抗議にも似た意見が多数あったようです。
となると、うれしくなって、ついタイ厚生省をほめてしまいましたが、あの国は、まわりの状況に合せてイエスとノーを使い分ける顔があるので、単に他国の動きを見ていて、自分たちも、その状況の流れに遅れをとって国内から批判を浴びないように、あわてて、他の国の意見に便乗して、そうするだけなのかもしれませんが。
けっこうタイという国は、まわりの顔色を見て、かなり日和見的な行動をとる傾向が強い国ですからね。
でも、この前のブログで、私が単にでたらめをいっているわけではないことが、おわかりいただいたいたのではないでしょうか?
皆さん、よく物事を見て、自分の頭でよく考えて、あえて勇気を持って、どんなにもっともらしい権威であっても、「王様は裸だ」といえる気概を持ちましょう。
たとえ国連機関であってもです。
国際的な情報操作かもしれないパニック報道に惑わされないように!
Be a Good Thinker !
かしこく考え、かしこく自分たちの身を守りましょう。
2009年06月23日
新型インフルエンザよりもはるかにおそろしい現実とは?
新型インフルエンザ・ウイルスより、もっとはるかにこわいものが実はあります。
実は、医療の医専門家たちが、くさいものにフタをしてしまって、わざと、その問題にふれることを避けているかのようです。
もっとこわいのは、人間が作った抗生物質のため、それに対応するべく学習し、どんな抗生物質を使っても死ななくなってきている、強力な耐性をもってしまった結核菌の方でしょう。
人間が、自分たちで、細菌をモンスターにしてしまったようなものです。
生命というものに対しての認識が甘いのだと思います。
細菌だって、なめたものじゃない。
細菌だって、生きています。
ですから、なんとか生き延びるために、学習し、それに適応しようと自分を変えていくのです。
ある地方の大学病院の外科医が、おしえてくれたことですが、高齢の患者さんが、結核になってしまった場合、今の結核菌は、もうほとんどの抗生物質に耐性をもってしまって、効く抗生物質は、もうあと1種類しかないのだそうです。
しかし、それを使って耐性菌ができてしまうと、もうまったく打つ手がなくなり、完全にお手上げとなるため、使いたくても使えないのだそうです。
すなわち、目の前のお年寄りは、やむをえず、見殺し、というわけです。
金にものをいわせれば、なんとでもなる米国では、どうやらその残りの抗生物質もすでに誰かに使ってしまったらしく、もし、それにも耐性を持つ結核菌が出現したら、もう打つ手がないことは、一般にはほとんど知られていないが、実は知られざる大問題なのだそうです。
私には、新型の豚インフルエンザの問題よりも、いかなる抗生物質にも死ななくなりつつある、人間自らがモンスター化してしまった結核菌の存在のほうが、大問題のように思われるのですが。
WHOは、なぜ、この問題は言及しないのでしょうか。
一国を揺るがすような巨大な製薬会社の製薬の利権が陰で巧妙に絡んでいる、この医療という世界の国際的な情報操作は、一筋縄ではいかないようです。
皆さん、生命の知恵を磨き、「自灯明」となるべく、かしこくなりましょう。
たとえ、どんなにもっともらしい権威に対しても、論理的に考えて、おかしいことはおかしい、「王様は裸だ」と見抜ける洞察力を磨いていきましょう。
一度しかない自分の大切な生命と、大切な家族と友人たちの命をしっかりと守るために。
実は、医療の医専門家たちが、くさいものにフタをしてしまって、わざと、その問題にふれることを避けているかのようです。
もっとこわいのは、人間が作った抗生物質のため、それに対応するべく学習し、どんな抗生物質を使っても死ななくなってきている、強力な耐性をもってしまった結核菌の方でしょう。
人間が、自分たちで、細菌をモンスターにしてしまったようなものです。
生命というものに対しての認識が甘いのだと思います。
細菌だって、なめたものじゃない。
細菌だって、生きています。
ですから、なんとか生き延びるために、学習し、それに適応しようと自分を変えていくのです。
ある地方の大学病院の外科医が、おしえてくれたことですが、高齢の患者さんが、結核になってしまった場合、今の結核菌は、もうほとんどの抗生物質に耐性をもってしまって、効く抗生物質は、もうあと1種類しかないのだそうです。
しかし、それを使って耐性菌ができてしまうと、もうまったく打つ手がなくなり、完全にお手上げとなるため、使いたくても使えないのだそうです。
すなわち、目の前のお年寄りは、やむをえず、見殺し、というわけです。
金にものをいわせれば、なんとでもなる米国では、どうやらその残りの抗生物質もすでに誰かに使ってしまったらしく、もし、それにも耐性を持つ結核菌が出現したら、もう打つ手がないことは、一般にはほとんど知られていないが、実は知られざる大問題なのだそうです。
私には、新型の豚インフルエンザの問題よりも、いかなる抗生物質にも死ななくなりつつある、人間自らがモンスター化してしまった結核菌の存在のほうが、大問題のように思われるのですが。
WHOは、なぜ、この問題は言及しないのでしょうか。
一国を揺るがすような巨大な製薬会社の製薬の利権が陰で巧妙に絡んでいる、この医療という世界の国際的な情報操作は、一筋縄ではいかないようです。
皆さん、生命の知恵を磨き、「自灯明」となるべく、かしこくなりましょう。
たとえ、どんなにもっともらしい権威に対しても、論理的に考えて、おかしいことはおかしい、「王様は裸だ」と見抜ける洞察力を磨いていきましょう。
一度しかない自分の大切な生命と、大切な家族と友人たちの命をしっかりと守るために。
2009年05月28日
新型インフルエンザの患者に対する魔女狩りのような騒ぎをよく考えてみる
豚インフルエンザの話題ばかりが目立つようになってきましたが、その感染者を、まるで犯罪者扱いか、あたかも魔女狩りのするような、WHO ( 世界保健機関 )の、人々をむやみに恐怖にあおるようなプロパガンタは、もういい加減にしてもらいたいものだと思っています。
まるで、なぞの宇宙人エイリアンが、なぞのウイルスをばらまき、へたをするとそれで人類が絶滅するかのような騒ぎ方ではありませんか。
医療の専門家といわれる人たちの、コミュニケーション能力の貧困さ、頼りに全然ならないひ弱さとふがいなさには、がっかりさせられます。まるで無力で無能ではないか、とすら考えたくなってきてしまいます。
WHOのトップが、地球の人口の大多数を占める、衛生状態もよくない貧困層の人口への感染拡大を強く懸念して、強調する気持ちはわからないでもありませんが、今、すぐに感染予防に役立つことやできることを明確にして、まず対処できることから確実に対処して、目先のことで予防できることから確実に予防していこう、という具体的で明確なメッセージがまったくなく、やたら、むやみに人々の恐怖や不安をあおるような声明ばかりに終始しています。
インフルエンザ・ウイルスは、今までのものも、新しいものも、どれも、熱には非常に弱いのですから、豚だろうが、鳥だろうが、かならずよく火を通してから食べる、とか、当然、あたりまえの論理的な対処の仕方が、まず指摘されてしかるべきです。
また、よく手を洗う、マメによくうがいをする、疲労をためない、よく十分な睡眠をとる、飲食に気をつけ、暴飲暴食のような、免疫力を落とすような生活習慣は送らない、健康的な生活習慣を守る、など、伝えるべきメッセージはいくらでもありますでしょうに。
WHOのだらしなさにくらべて、たまたま新宿の紀伊国屋書店で見つけた、小さな子供向けのインフルエンザ対策の本では、まさに、今述べたような、今すぐにできることからはじめて、免疫系を守り、予防効果を高めるような具体策が、かなりしっかり書いてあって、こういう医療専門家も、まれにいるのだな、と感心したものでした。
ワクチンができなければ、終わりだ、絶望だ、みな、間違いなく全員がかかってしまうにちがいない、というような、頭でっかちな妄想というか、思い込みは、いったいどこからでてくるのでしょうか?
まるで、新型インフルエンザにふれた人は、かならず感染するような伝え方、騒ぎ方をする。
実際、かかる人もいるが、全然かからない人もいるというのが本当の事実。
ましてや、ワクチンという獲得免疫だけが生態防御のはたらきじゃないですよ。
自然免疫のはたらきだって、あるし、たのもしい生態防御のはたらきは、そんなに、頭でっかちな人たちの思い込みをはるかに超えて、たくましくはたらいています。
また、狩猟民族である西洋流の思考の弱点が、未知なるものへの異常なまでの恐怖心、というものでしょうね。昔、ヨーロッパで大流行したコレラやぺストなどの疫病の悪夢が、彼ら病気の原因を外に求める傾向の強い西洋医学を勉強しすぎた人々や西洋人のDNAに根強くこびりついているかのようです。
笑いが止まらないのは、マスクの製造会社と、政府からも早急なワクチン製造をせかされて、助成金などが政府から入ってくるであろう製薬会社ばかり。
鳥インフルエンザが大流行するぞ、とさんざん脅かしておいて、どうも、大流行の火がつかないと思いきや、急に、今度は、豚インフルエンザの恐怖ときた。
エイリアンAが広まらないなら、エイリアンBだ、とばかり。
「オオカミが来た!オオカミが来た!」と騒いで、オオカミが来ず、ほんとうにオオカミが来たときに、再びそういっても、誰も信用してくれなくなった、という「オオカミ少年」の寓話を思い出します。
SARSのときだって、WHOは、まだ問題が解決したわけでもないのに、政治的に終結宣言をして、それを鵜呑みにする判断力の低い多くの人間たちが、いっせいにマスクをはずした、などという、実にいい加減な対応を思い出します。
終結宣言をしたときに、まだSARSのワクチンが完成したわけではないのですよ。
じゃあ、あれだけ、あおっておきながら、なぜ、SARS終結宣言ができるわけでしょうか?
さて、ここでよく考えてみましょう。
ウイルスの飛沫感染を防ぐといっても、もちろん、くしゃみや咳のときの、つばきや痰が直接、入ってくるのは防げても、ウイルス一個の大きさをサッカーボールにたとえれば、マスクの穴の大きさは、東京ドームくらいあるのだから、マスクでウイルス感染を防げると考えること自体が、あまりにも科学的なかしこい判断とは、とても思えません。
このテーマは、米国の有名なアンドルー・ワイル博士と、メールで、ときどき話題にして、「日本でもみんなマスクしているのかい?」と、2人でよく苦笑しています。
まったく無駄とはいいませんが、ほとんど科学的にいったら、ほとんど意味がないと思います。
WHOトップの医療専門家たちによる、人々への恐怖のあおり方は、異常というか、ヒステリックというか、コミュニケーションのしかたや伝え方をよくわきまえず、人の心理への影響を理解していない、まるで人々を集団パニックか集団ヒステリーに扇動しているような、あまりに思慮の足りない、浅はかなものであるように思われてなりません。
自分たちにあまりに打つ手がないため、マスクを奨励することで、かろうじて、何か具体的なやっているように、表面上、見せかけているに過ぎないのではないか、と思われてもしかたありません。
科学的な、まず、すぐにできることからはじめて、われわれの免疫系をいかに守るか、という議論ではなく、適当に、政治的に、もっともらしく、何か政策をやっているかのように、見せかけたにすぎない、と思われてなりません。
たとえ、国連機関の専門家が言ったことでも、まさに、「王様は裸だ」ということは、よくあることだと思います。
皆さん、たくましく、したたかに、賢くなりましょう。
38億年の生物の進化の歴史を、たくましく勝ち抜いてきた人間の生命の生態防御のはたらきと知恵は、そんなにやわではないと思いますよ。
まるで、なぞの宇宙人エイリアンが、なぞのウイルスをばらまき、へたをするとそれで人類が絶滅するかのような騒ぎ方ではありませんか。
医療の専門家といわれる人たちの、コミュニケーション能力の貧困さ、頼りに全然ならないひ弱さとふがいなさには、がっかりさせられます。まるで無力で無能ではないか、とすら考えたくなってきてしまいます。
WHOのトップが、地球の人口の大多数を占める、衛生状態もよくない貧困層の人口への感染拡大を強く懸念して、強調する気持ちはわからないでもありませんが、今、すぐに感染予防に役立つことやできることを明確にして、まず対処できることから確実に対処して、目先のことで予防できることから確実に予防していこう、という具体的で明確なメッセージがまったくなく、やたら、むやみに人々の恐怖や不安をあおるような声明ばかりに終始しています。
インフルエンザ・ウイルスは、今までのものも、新しいものも、どれも、熱には非常に弱いのですから、豚だろうが、鳥だろうが、かならずよく火を通してから食べる、とか、当然、あたりまえの論理的な対処の仕方が、まず指摘されてしかるべきです。
また、よく手を洗う、マメによくうがいをする、疲労をためない、よく十分な睡眠をとる、飲食に気をつけ、暴飲暴食のような、免疫力を落とすような生活習慣は送らない、健康的な生活習慣を守る、など、伝えるべきメッセージはいくらでもありますでしょうに。
WHOのだらしなさにくらべて、たまたま新宿の紀伊国屋書店で見つけた、小さな子供向けのインフルエンザ対策の本では、まさに、今述べたような、今すぐにできることからはじめて、免疫系を守り、予防効果を高めるような具体策が、かなりしっかり書いてあって、こういう医療専門家も、まれにいるのだな、と感心したものでした。
ワクチンができなければ、終わりだ、絶望だ、みな、間違いなく全員がかかってしまうにちがいない、というような、頭でっかちな妄想というか、思い込みは、いったいどこからでてくるのでしょうか?
まるで、新型インフルエンザにふれた人は、かならず感染するような伝え方、騒ぎ方をする。
実際、かかる人もいるが、全然かからない人もいるというのが本当の事実。
ましてや、ワクチンという獲得免疫だけが生態防御のはたらきじゃないですよ。
自然免疫のはたらきだって、あるし、たのもしい生態防御のはたらきは、そんなに、頭でっかちな人たちの思い込みをはるかに超えて、たくましくはたらいています。
また、狩猟民族である西洋流の思考の弱点が、未知なるものへの異常なまでの恐怖心、というものでしょうね。昔、ヨーロッパで大流行したコレラやぺストなどの疫病の悪夢が、彼ら病気の原因を外に求める傾向の強い西洋医学を勉強しすぎた人々や西洋人のDNAに根強くこびりついているかのようです。
笑いが止まらないのは、マスクの製造会社と、政府からも早急なワクチン製造をせかされて、助成金などが政府から入ってくるであろう製薬会社ばかり。
鳥インフルエンザが大流行するぞ、とさんざん脅かしておいて、どうも、大流行の火がつかないと思いきや、急に、今度は、豚インフルエンザの恐怖ときた。
エイリアンAが広まらないなら、エイリアンBだ、とばかり。
「オオカミが来た!オオカミが来た!」と騒いで、オオカミが来ず、ほんとうにオオカミが来たときに、再びそういっても、誰も信用してくれなくなった、という「オオカミ少年」の寓話を思い出します。
SARSのときだって、WHOは、まだ問題が解決したわけでもないのに、政治的に終結宣言をして、それを鵜呑みにする判断力の低い多くの人間たちが、いっせいにマスクをはずした、などという、実にいい加減な対応を思い出します。
終結宣言をしたときに、まだSARSのワクチンが完成したわけではないのですよ。
じゃあ、あれだけ、あおっておきながら、なぜ、SARS終結宣言ができるわけでしょうか?
さて、ここでよく考えてみましょう。
ウイルスの飛沫感染を防ぐといっても、もちろん、くしゃみや咳のときの、つばきや痰が直接、入ってくるのは防げても、ウイルス一個の大きさをサッカーボールにたとえれば、マスクの穴の大きさは、東京ドームくらいあるのだから、マスクでウイルス感染を防げると考えること自体が、あまりにも科学的なかしこい判断とは、とても思えません。
このテーマは、米国の有名なアンドルー・ワイル博士と、メールで、ときどき話題にして、「日本でもみんなマスクしているのかい?」と、2人でよく苦笑しています。
まったく無駄とはいいませんが、ほとんど科学的にいったら、ほとんど意味がないと思います。
WHOトップの医療専門家たちによる、人々への恐怖のあおり方は、異常というか、ヒステリックというか、コミュニケーションのしかたや伝え方をよくわきまえず、人の心理への影響を理解していない、まるで人々を集団パニックか集団ヒステリーに扇動しているような、あまりに思慮の足りない、浅はかなものであるように思われてなりません。
自分たちにあまりに打つ手がないため、マスクを奨励することで、かろうじて、何か具体的なやっているように、表面上、見せかけているに過ぎないのではないか、と思われてもしかたありません。
科学的な、まず、すぐにできることからはじめて、われわれの免疫系をいかに守るか、という議論ではなく、適当に、政治的に、もっともらしく、何か政策をやっているかのように、見せかけたにすぎない、と思われてなりません。
たとえ、国連機関の専門家が言ったことでも、まさに、「王様は裸だ」ということは、よくあることだと思います。
皆さん、たくましく、したたかに、賢くなりましょう。
38億年の生物の進化の歴史を、たくましく勝ち抜いてきた人間の生命の生態防御のはたらきと知恵は、そんなにやわではないと思いますよ。
2009年05月05日
皮肉と嘲笑で彼女をあざ笑っていた英国人たちの度肝を抜いた、スコットランド人女性
インターネットでのニュース記事で、たまたま4月に海外にいた私が眼にした記事がありました。
写真を見ると、正直言って申し訳ないのですが、ブサイクなおばさんの顔写真があり、そのあまりに眉毛が濃いので、男の人が性転換でも女性になったのかと思ったほどでした。
さて、YouTubeでも、たいへん話題になっていたようで、たくさん動画で紹介されていましたので、さっそく見てみました。
Britain's Got Talent−まだ知られざる英国の才ある人物をオーディションで発掘しようというTV番組で、非常に人気があるようです。
今回の公開オーディションの場所は、スコットランドのグラスゴー。
ここで、皆さん、英国といって、イギリスだけを思い浮かべるようではいけません。イギリス、スコットランド、ウェイルズ、アイルランドを総称して、Great Britan と呼ぶわけで、たとえば、イギリス人と、スコットランド人は、気質も性格もかなりちがうようです。
イギリス人のイメージは、やや陰湿で、神経質で皮肉っぽい気取ったイメージがあり、それらしいイギリス人の特徴は、Mr. Bean ( ミスター・ビーン)という世界的に有名なコメディTV番組に、まさに十分に「誇張」されてユーモラスに表現されています。
いかにもイギリス人らしいいやらしさを誇大化して強調しているので、イギリス人を知る人みなに思い当たるところや実感できるところが多く、人気を呼んでいるようです。
神経質で皮肉屋なイギリス人に比べて、一方、スコットランド人は、頑固一徹。
実は、スコットランド人とイギリス人は、あまり仲がよくありません。
街中で、地図を見ながら道に迷っているようなら、スコットランド人なら、すぐに親切に声をかけて、手助けしてあげるが、イギリス人を見てみろ、ロンドンあたりで、道に迷っている人がいても、誰も声をかけてあげる親切なイギリス人など見たことがない。われわれ、スコットランド人は、そういう冷たいイギリス人とは全然ちがうのだ、などという話は、よくスコットランド人から聞かされたものです。とにかく気質がちがうようです。
さて、話を元に戻します。
その新たな才能発掘の公開オーディションに、すでに47歳のブサイクなスコットランド人のおばさんが登場し、皮肉交じりの審査員の質問に、プロの歌手になりたい、目標はエレーン・ペイジ、などと答えたものだから、審査員は、内心、「何をいってるんだろうねえ、このおばさんは。その顔と年齢じゃ、無理に決まっているでしょ。ちょっとおかしいんじゃないの。どうせ聞いても意味がないと思うけどね。一応は聞くけどね。ひどかったら、すぐに帰ってもらいたいねぇ。」というノリと態度でしたね。
私ですら、なんだろ、このおばさんは、という感じで、見ていましたからね。
会場に集まった聴衆も、まず全員が、このブサイクなおばさんをばかにして、あざわらっているような雰囲気でした。
選択した歌の曲名は、ミュージカルでも有名な「レ・ミゼラブル」から「I Dreamed A Dream.」(「私は、夢を生きた」)。人生でひたむきに自分の夢を生きようとし、その挫折にあっても、そのことにあえて真正面から向き合って歌う、重い、むずかしい曲です。
それなりの教養の深みと人生経験がないと、歌いこなせないような深みと重みのある曲です。
ちょっとでも、へたに歌ったら、それこそ伝統的な教養を誇りにするイギリス人、ときにインテリたちからは、いっぺんに嘲笑されることでしょう。
ところが、彼女が歌いだしたら、審査員と会場の人たちの表情が、一瞬にして、驚きに変わります。
唖然として、声を失う、とは、このようなことをいうのでしょう。
あまりに意外すぎて、あっけにとられてしまうほど、見事に、そのむずかしい人生の重みあるその曲を、まさに「表現」として、歌いきってしまったのです。
私も、最初は、ぽかんとしてしまったのですが、だんだんむやみに感動してきて、最後の盛り上がりでは、涙が出てきてしまいました。
彼女をこばかにしていた審査員と聴衆全員を、一瞬にしてノックアウトしてしまったのです。
私も、人を見かけで判断してはいけない、と大いに反省しました。
しかし、これだけの大勢の好意的でない聴衆を前にしながら、聴衆の大歓声の反応にも自分を失わず、ただただ自分の歌を見事に歌いきった彼女はすごい!脱帽です。お見事としかいいようがありません。
彼女の名前は、スーザン・ボイル。スコットランドの田舎町に住んでいるのだそうです。
顕著に皮肉交じりでこばかにしていた審査員が、思わず、反省のコメントを述べて、「あなたの歌を聞けて、とても光栄でした」と言ってしまうほど、彼女は、皆の思惑を根本からひっくりかえしてしまったのです。
バカにしていた聴衆も、総立ちになって拍手を彼女に送ります。
「おまえなんか、どうせ、だめだよ。無理に決まってるよ。」
こういう思惑を、現実にひっくりかえして、相手が、全面降参するくらいの結果を、目の前に突きつけてやることほど愉快で、痛快なことはありませんね。
私も、見ていて感動し、気分がすがすがしくなってしまいました。
YouTubeを見ていない人は、日本語訳のつけたものを見つけましたから、見てみてくださいね。
英国の番組は、YouTubeの動画を、そのままこちらのブログなどのサイトに埋め込むことができない(英国とGoogleとの著作権に関する同意事項による)ので、ここをクリックして、YouTube画面から、直接ご覧ください。
でも、ここで、やり手のプロデューサーである、辛口の批判をズバズバいうサイモンという審査員のひとりは、どうも事前調査で、このような展開をうすうす予想し、計画していたようでもあります。
こういうオーディションは、いきなり本番というわけではないでしょうし、予備審査というものもありましょうから、あまりにも意外なドラマチックなケースに対する人々の反響を予想、期待して、彼がマーケティング戦略をはかっていたような部分もあります。
というのは、この番組の直後、よく編集された番組内容が、全世界にYouTubeなどを通して、いっせいに公開され、実に短期間に知らされた事実であり、あまりに手際がよすぎるからです。
ねらいはあたって、すぐに公開された番組のYouTubeの動画は、あっというまに数百万のアクセスとなり、一大事件となります。
サイモンは、すぐに、このドラマチックなデビューをした彼女のCDは全世界で数百万枚売れると、読んでいたようです。
このような表に出ないマーケティングの仕掛け人が存在するのが世の中なのだということも見抜いてくださいね。
しかしながら、自分が長年、純粋に夢見ていたことがかなった彼女の顔を、その後、くりかえし、くりかえしYouTubeで見ていたら、最初は、男性が無理に性転換した人かと思うほどだった彼女の顔が、もはやブサイクなイメージではなく、ある種の人間的なかわいらしさを感じるくらいに印象が変わってしまったのには、人間心理というものの変わりやすさを感じました。
純粋に感動すると、実は陰に売り込みの仕掛け人がいた、というと、いやな印象を受けますが、現実には、そういう人がいないと広まらないのも現実であり、彼女自身が何か、画策したわけではないので、私は、素直によろこぶことにしました。
しかし、皆さん、皆さんも、彼女のように、自分の人生で、自分をこばかにしてくる連中がいたなら、そういう連中のハナをあかしてやることを生きがいにしたいものですね。
だって、痛快で、愉快で、気分がすっきりするじゃないですか。
写真を見ると、正直言って申し訳ないのですが、ブサイクなおばさんの顔写真があり、そのあまりに眉毛が濃いので、男の人が性転換でも女性になったのかと思ったほどでした。
さて、YouTubeでも、たいへん話題になっていたようで、たくさん動画で紹介されていましたので、さっそく見てみました。
Britain's Got Talent−まだ知られざる英国の才ある人物をオーディションで発掘しようというTV番組で、非常に人気があるようです。
今回の公開オーディションの場所は、スコットランドのグラスゴー。
ここで、皆さん、英国といって、イギリスだけを思い浮かべるようではいけません。イギリス、スコットランド、ウェイルズ、アイルランドを総称して、Great Britan と呼ぶわけで、たとえば、イギリス人と、スコットランド人は、気質も性格もかなりちがうようです。
イギリス人のイメージは、やや陰湿で、神経質で皮肉っぽい気取ったイメージがあり、それらしいイギリス人の特徴は、Mr. Bean ( ミスター・ビーン)という世界的に有名なコメディTV番組に、まさに十分に「誇張」されてユーモラスに表現されています。
いかにもイギリス人らしいいやらしさを誇大化して強調しているので、イギリス人を知る人みなに思い当たるところや実感できるところが多く、人気を呼んでいるようです。
神経質で皮肉屋なイギリス人に比べて、一方、スコットランド人は、頑固一徹。
実は、スコットランド人とイギリス人は、あまり仲がよくありません。
街中で、地図を見ながら道に迷っているようなら、スコットランド人なら、すぐに親切に声をかけて、手助けしてあげるが、イギリス人を見てみろ、ロンドンあたりで、道に迷っている人がいても、誰も声をかけてあげる親切なイギリス人など見たことがない。われわれ、スコットランド人は、そういう冷たいイギリス人とは全然ちがうのだ、などという話は、よくスコットランド人から聞かされたものです。とにかく気質がちがうようです。
さて、話を元に戻します。
その新たな才能発掘の公開オーディションに、すでに47歳のブサイクなスコットランド人のおばさんが登場し、皮肉交じりの審査員の質問に、プロの歌手になりたい、目標はエレーン・ペイジ、などと答えたものだから、審査員は、内心、「何をいってるんだろうねえ、このおばさんは。その顔と年齢じゃ、無理に決まっているでしょ。ちょっとおかしいんじゃないの。どうせ聞いても意味がないと思うけどね。一応は聞くけどね。ひどかったら、すぐに帰ってもらいたいねぇ。」というノリと態度でしたね。
私ですら、なんだろ、このおばさんは、という感じで、見ていましたからね。
会場に集まった聴衆も、まず全員が、このブサイクなおばさんをばかにして、あざわらっているような雰囲気でした。
選択した歌の曲名は、ミュージカルでも有名な「レ・ミゼラブル」から「I Dreamed A Dream.」(「私は、夢を生きた」)。人生でひたむきに自分の夢を生きようとし、その挫折にあっても、そのことにあえて真正面から向き合って歌う、重い、むずかしい曲です。
それなりの教養の深みと人生経験がないと、歌いこなせないような深みと重みのある曲です。
ちょっとでも、へたに歌ったら、それこそ伝統的な教養を誇りにするイギリス人、ときにインテリたちからは、いっぺんに嘲笑されることでしょう。
ところが、彼女が歌いだしたら、審査員と会場の人たちの表情が、一瞬にして、驚きに変わります。
唖然として、声を失う、とは、このようなことをいうのでしょう。
あまりに意外すぎて、あっけにとられてしまうほど、見事に、そのむずかしい人生の重みあるその曲を、まさに「表現」として、歌いきってしまったのです。
私も、最初は、ぽかんとしてしまったのですが、だんだんむやみに感動してきて、最後の盛り上がりでは、涙が出てきてしまいました。
彼女をこばかにしていた審査員と聴衆全員を、一瞬にしてノックアウトしてしまったのです。
私も、人を見かけで判断してはいけない、と大いに反省しました。
しかし、これだけの大勢の好意的でない聴衆を前にしながら、聴衆の大歓声の反応にも自分を失わず、ただただ自分の歌を見事に歌いきった彼女はすごい!脱帽です。お見事としかいいようがありません。
彼女の名前は、スーザン・ボイル。スコットランドの田舎町に住んでいるのだそうです。
顕著に皮肉交じりでこばかにしていた審査員が、思わず、反省のコメントを述べて、「あなたの歌を聞けて、とても光栄でした」と言ってしまうほど、彼女は、皆の思惑を根本からひっくりかえしてしまったのです。
バカにしていた聴衆も、総立ちになって拍手を彼女に送ります。
「おまえなんか、どうせ、だめだよ。無理に決まってるよ。」
こういう思惑を、現実にひっくりかえして、相手が、全面降参するくらいの結果を、目の前に突きつけてやることほど愉快で、痛快なことはありませんね。
私も、見ていて感動し、気分がすがすがしくなってしまいました。
YouTubeを見ていない人は、日本語訳のつけたものを見つけましたから、見てみてくださいね。
英国の番組は、YouTubeの動画を、そのままこちらのブログなどのサイトに埋め込むことができない(英国とGoogleとの著作権に関する同意事項による)ので、ここをクリックして、YouTube画面から、直接ご覧ください。
でも、ここで、やり手のプロデューサーである、辛口の批判をズバズバいうサイモンという審査員のひとりは、どうも事前調査で、このような展開をうすうす予想し、計画していたようでもあります。
こういうオーディションは、いきなり本番というわけではないでしょうし、予備審査というものもありましょうから、あまりにも意外なドラマチックなケースに対する人々の反響を予想、期待して、彼がマーケティング戦略をはかっていたような部分もあります。
というのは、この番組の直後、よく編集された番組内容が、全世界にYouTubeなどを通して、いっせいに公開され、実に短期間に知らされた事実であり、あまりに手際がよすぎるからです。
ねらいはあたって、すぐに公開された番組のYouTubeの動画は、あっというまに数百万のアクセスとなり、一大事件となります。
サイモンは、すぐに、このドラマチックなデビューをした彼女のCDは全世界で数百万枚売れると、読んでいたようです。
このような表に出ないマーケティングの仕掛け人が存在するのが世の中なのだということも見抜いてくださいね。
しかしながら、自分が長年、純粋に夢見ていたことがかなった彼女の顔を、その後、くりかえし、くりかえしYouTubeで見ていたら、最初は、男性が無理に性転換した人かと思うほどだった彼女の顔が、もはやブサイクなイメージではなく、ある種の人間的なかわいらしさを感じるくらいに印象が変わってしまったのには、人間心理というものの変わりやすさを感じました。
純粋に感動すると、実は陰に売り込みの仕掛け人がいた、というと、いやな印象を受けますが、現実には、そういう人がいないと広まらないのも現実であり、彼女自身が何か、画策したわけではないので、私は、素直によろこぶことにしました。
しかし、皆さん、皆さんも、彼女のように、自分の人生で、自分をこばかにしてくる連中がいたなら、そういう連中のハナをあかしてやることを生きがいにしたいものですね。
だって、痛快で、愉快で、気分がすっきりするじゃないですか。
2009年04月30日
タイの伝説的な外科医セン博士は、今年99歳
タイ国の厚生大臣を、過去に10年もの間つとめたことのある外科医、セン博士は、ことしの5月で、もう99歳になります。
それほどのご高齢なのに、全然、頭は衰えておらず、私が出した手紙の内容など、ちゃんと覚えているのですから、おそれいるどころか驚嘆してしまいます。
セン先生のことは、以前にも、すでにブログや、新刊の本で紹介しましたが、セン先生は、かつて厚生大臣の時代に、無医村ばかりで医療がいきわたっていない当時のタイ国の実情を知り、それをなんとかしようと、病床のある病院を、タイ全国におよそ600ほどつくり、また、病気の予防のため、タイ国民の公衆衛生指導にも力を入れ、タイ公衆衛生の父といわれている方です。
そのような現実の重大な仕事をいくつも成し遂げたばかりでなく、何よりも、その人間性の大きさに、私は、人間としてほれ込んでしまいました。
稀有なご縁で親しくおつきあいさせていただくようになり、今では、先生のご自宅を訪問するたびに「This is your home.」といってくださることは、何よりも幸せなことと思っております。
ご自宅で会食をするたびに、謙虚な仏教精神を持ちながらも、その精神のスケールのでかさと私心のなさには、いつもあらためて驚かされます。
そして、世の中のことであれこれ心が迷いやすい己の身を省みて、心が洗われ、また自分が本来のマットウな道に立ち戻らせてもらえたような気持ちになります。
自分が現在、心の底からメンターとして慕う先生です。
ある意味で、迷ったときに決断する際に、自分の心の支えとなっているような先生です。
足が、以前よりだいぶ弱られましたが、タイでは、9とか99は、ラッキーナンバーとされていますので、ますますお元気で、100歳を超えてまで、できる限り、お元気で生きていていいただきたい、と、心から願っています。
それほどのご高齢なのに、全然、頭は衰えておらず、私が出した手紙の内容など、ちゃんと覚えているのですから、おそれいるどころか驚嘆してしまいます。
セン先生のことは、以前にも、すでにブログや、新刊の本で紹介しましたが、セン先生は、かつて厚生大臣の時代に、無医村ばかりで医療がいきわたっていない当時のタイ国の実情を知り、それをなんとかしようと、病床のある病院を、タイ全国におよそ600ほどつくり、また、病気の予防のため、タイ国民の公衆衛生指導にも力を入れ、タイ公衆衛生の父といわれている方です。
そのような現実の重大な仕事をいくつも成し遂げたばかりでなく、何よりも、その人間性の大きさに、私は、人間としてほれ込んでしまいました。
稀有なご縁で親しくおつきあいさせていただくようになり、今では、先生のご自宅を訪問するたびに「This is your home.」といってくださることは、何よりも幸せなことと思っております。
ご自宅で会食をするたびに、謙虚な仏教精神を持ちながらも、その精神のスケールのでかさと私心のなさには、いつもあらためて驚かされます。
そして、世の中のことであれこれ心が迷いやすい己の身を省みて、心が洗われ、また自分が本来のマットウな道に立ち戻らせてもらえたような気持ちになります。
自分が現在、心の底からメンターとして慕う先生です。
ある意味で、迷ったときに決断する際に、自分の心の支えとなっているような先生です。
足が、以前よりだいぶ弱られましたが、タイでは、9とか99は、ラッキーナンバーとされていますので、ますますお元気で、100歳を超えてまで、できる限り、お元気で生きていていいただきたい、と、心から願っています。
2009年03月30日
世界150カ国から患者さんが集まってくる、国際的な5スターホスピタル
タイの首都バンコクのど真ん中に、ブンルンラッド病院という私立の病院がある。
ここには、その評判を聞きつけて、世界150カ国から患者さんが集まってくる。
なぜかといえば、5スターの病院といわれるほど、ホテル並みの行き届いたメディカル・ケアや医療サービスが受けられるからである。
米国の医療機関でトレーニングを受けてきた腕の立つ優秀な医師たちの存在もさることながら、一流の医療設備を誇りながら、とても親切で、あたたかみのあるスタッフの対応が、高い評判となっているようなのだ。
ホスピタリティのある医療サービスとは、実際に、どういうものなのか、大いに参考になる事例だと思う。
タイの一般的な病院と比べれば、高額だが、米国の目玉が飛び出るように高い医療費から比べれば、かかる治療費は、手術やその他の治療費と快適なホテルのような入院費用を含めても、だいたい米国でかかる費用の5分の1以下ですむようなのだ。
そういうところが魅力となって、技術を誇り、高額な割には、かならずしもサービスの質がよいとはいえない米国の医療を逃げ出した患者が多く利用するようになってきている。
高くて不親切な米国の病院よ、さようなら、というわけである。
たとえていうと、米国の国際線のフライトの機内サービスを思い出してみれば、米国のサービスといわれるものの質が、いかにホスピタリティのない、雑でレベルの低いものであるかは、想像がつくのではないだろうか。
米国の高度な先端医療技術は評価できても、米国のあまりに高すぎる医療費は最悪で、決して、他国が絶対にマネをしてはならないものだろう。
参考までに、Bumrunrad Hospitalの情報をYouTubeで、読者の皆さんにお届けします。
ただし、英語のままですので、あしからず、申し訳ありません。
ここには、その評判を聞きつけて、世界150カ国から患者さんが集まってくる。
なぜかといえば、5スターの病院といわれるほど、ホテル並みの行き届いたメディカル・ケアや医療サービスが受けられるからである。
米国の医療機関でトレーニングを受けてきた腕の立つ優秀な医師たちの存在もさることながら、一流の医療設備を誇りながら、とても親切で、あたたかみのあるスタッフの対応が、高い評判となっているようなのだ。
ホスピタリティのある医療サービスとは、実際に、どういうものなのか、大いに参考になる事例だと思う。
タイの一般的な病院と比べれば、高額だが、米国の目玉が飛び出るように高い医療費から比べれば、かかる治療費は、手術やその他の治療費と快適なホテルのような入院費用を含めても、だいたい米国でかかる費用の5分の1以下ですむようなのだ。
そういうところが魅力となって、技術を誇り、高額な割には、かならずしもサービスの質がよいとはいえない米国の医療を逃げ出した患者が多く利用するようになってきている。
高くて不親切な米国の病院よ、さようなら、というわけである。
たとえていうと、米国の国際線のフライトの機内サービスを思い出してみれば、米国のサービスといわれるものの質が、いかにホスピタリティのない、雑でレベルの低いものであるかは、想像がつくのではないだろうか。
米国の高度な先端医療技術は評価できても、米国のあまりに高すぎる医療費は最悪で、決して、他国が絶対にマネをしてはならないものだろう。
参考までに、Bumrunrad Hospitalの情報をYouTubeで、読者の皆さんにお届けします。
ただし、英語のままですので、あしからず、申し訳ありません。
2009年02月28日
生命の讃歌 Canto Derra Terra - バリ島の画家 アントニオ・ブランコ氏の天真爛漫なる精神
バリ島の画家アントニオ・ブランコ氏のことは、以前、ブログでも書き、新刊の本でも、ふれた。
彼が書いた絵も、それなりに評価できるが、何よりも彼の生き方そのものが、まさに芸術そのものだった。
彼は、もうこの世にいないが、彼の奥さんや、息子さんとその子どもたち(ブランコ氏にとっては孫)とは、現在も変わらない交流がある。
皆、へんに気取らない、それでいてセンスがあり、気さくで、人なつっこく、実に親切で明るい。そういう家族だ。
いつもバリ島に寄ってたずねるたびに、心から歓迎してくれることはうれしい。
天真爛漫で自由な精神は、自然に家族のDNAになっていくのだろうか。
今は亡きブランコ氏を記念してできた美術館には、いつも流れている音楽があり、その音楽を聴くたびに、天真爛漫なブランコ氏をなつかしく、思い出す。
すると、氏のことを思い出し、涙がこみあげてくるのだ。
流れていた、その音楽がなんという曲であるかを必死に調べて、はじめて知ったのが、世界的に有名なイタリアのテノール歌手、アンドレア・ボチェーリであった。
そして、そのとき、はじめて彼が全盲であることを知った。
そのとき、流れていた曲を、いつかブログの読者にお聞かせしたいと思っていたら、YouTubeのおかげで、それが可能になった。
彼の歌うCanto Della Terra が、あるイメージ映像にまとめられているが、人間の眼が、決意のようなものを暗示しているようで、聞いていて、なんとなく、生きる勇気をもらうような気分になる。
皆さんは、どのようにお感じなられるであろうか。
できたら感想をいただきたい。
彼が書いた絵も、それなりに評価できるが、何よりも彼の生き方そのものが、まさに芸術そのものだった。
彼は、もうこの世にいないが、彼の奥さんや、息子さんとその子どもたち(ブランコ氏にとっては孫)とは、現在も変わらない交流がある。
皆、へんに気取らない、それでいてセンスがあり、気さくで、人なつっこく、実に親切で明るい。そういう家族だ。
いつもバリ島に寄ってたずねるたびに、心から歓迎してくれることはうれしい。
天真爛漫で自由な精神は、自然に家族のDNAになっていくのだろうか。
今は亡きブランコ氏を記念してできた美術館には、いつも流れている音楽があり、その音楽を聴くたびに、天真爛漫なブランコ氏をなつかしく、思い出す。
すると、氏のことを思い出し、涙がこみあげてくるのだ。
流れていた、その音楽がなんという曲であるかを必死に調べて、はじめて知ったのが、世界的に有名なイタリアのテノール歌手、アンドレア・ボチェーリであった。
そして、そのとき、はじめて彼が全盲であることを知った。
そのとき、流れていた曲を、いつかブログの読者にお聞かせしたいと思っていたら、YouTubeのおかげで、それが可能になった。
彼の歌うCanto Della Terra が、あるイメージ映像にまとめられているが、人間の眼が、決意のようなものを暗示しているようで、聞いていて、なんとなく、生きる勇気をもらうような気分になる。
皆さんは、どのようにお感じなられるであろうか。
できたら感想をいただきたい。





